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鹿島神宮「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」

リーディングマスター・まさみちです。
普段は見えないものと交信して真理を通して問題の根幹を解き明かす研究に没頭している心理カウンセラーをしております。


鹿島神宮「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」

YouTubeで鹿島神宮の武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)の使い方をシンプルに解説しております。

鹿島神宮にて、Instagramのライブ配信をしてきました。
視聴者に来ていただき、質疑応答をしております。
武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)や四聖獣と繋がりメッセージを届けております。

行く前に「武甕槌(タケミカヅチ)」がどんな神さまかを調べたら、たくさんの情報が流れ込んできて古事記、日本書紀に書いてある本質が解ったのです。

あらすじと今回の焦点

あらすじ

イザナミから生まれた火の神の出産が元で死に、イザナキにより剣で火の神が殺された時に飛び散った血から生まれたいくつかの神の内の一柱が「武甕槌大神(タケミカヅチ)」である。

今回の焦点

深い哀しみに反発して頑張るエゴ(火の神)に従うのをイザナキである自分の真心に気づいてやめ、愛ある姿に戻す為の一歩を踏み出す。十束の剣を振るうと共に芽生えた意識の在り方が八神であり、その一つが武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)となる。この意思の有り様がまさに雷神とも軍神とも扱われるほど揺るぎのないもので、哀しみを消し去り愛に還すことが出来、火の神さえもなかったことに出来る強力なもの。目覚めの力をもたらす存在のこと。

伊弉諾(イザナキ)と伊弉冉(イザナミ)

ここからザックリ解説すると、イザナキは『呼びかける真心』であり、イザナミは『応じて答える自我』というイメージのもの。
一人でいるなら自問自答のことですし、他人と対話するなら二人の会話が良好な状態であれば、様々なものが生み出され「美しく」「面白く」「健やかで」「楽しく」「変化を遊ぶ今を生きる」としたやり取りが出来るもの。
これは人付き合い全般のことを指し、何人であっても呼びかけに応じるという姿で現れることの根源的な比喩表現がイザナキとイザナミです。

呼応する関係のこと

男女や夫婦のイメージが強烈であるものの、イザナキとイザナミは自分の真我の思いを自我がどのようなリアクションを取るかを指す。
もちろん夫婦とした解釈でも良い。
分かり合えている関係のリアクションならよく、そうで無いネガティヴなリアクションが出てくるとイザナミは死んでいるとした解釈がある。
それはイザナミが死の原因である火の神である火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)は端的に「利己的な哀しみに基づくエゴ(自我)」を指す。
つまり、火の神というのは「簡単便利で楽々安心できる発想」のことを指し、人との関係における解り易いリアクションである。
火の神である火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)は、
「こうすれば、時と場合と立場をわきまえた正解の反応でしょ」
としたエゴのことをいう。

伊弉冉(イザナミ)としう真心が異変に気づくかどうかが全ての鍵!

イザナキの呼びかけにイザナミは応えるものの、それが「簡単便利で楽々安心できる発想だから、こうして答えればいいんでしょ?」的なイザナキの投げかけてきた言葉や、自分の置かれている現状に対する表現をした時に「これ、わたしの言いたい事じゃない!!」「自分が魂である本心を偽って、云いたいことを伝えられなくなった鬼に乗っ取られている言葉だ!」とイザナミである私が自分のリアクションの不味さに気づくことが大事なんです(魂に云うを抜くと鬼という字になる)。

イザナミは死んだ……哀しい……許せない!

イザナキとイザナミは息の合った呼応するやり取りをするものです。
「イザナミからのリアクションはそんな軽薄的なものではない!」
と、生み出された火の神、火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)とのやり取りは偽物だとわかると、イザナミは神剣(十束の剣(トツカノツルギ))を持ち出して火の神を殺すのです(エゴに従わないという覚悟を持つ)。
この神剣である十束の剣が「リーディング」という祈りの力です。
自分がエゴに乗っ取られていると気づくことは、単純に負の感情や思考に従っていることに気づく事でもあります。
負の感情や思考などネガティヴマインドに陥っているからといって、十束の剣を出せるかが問題であり、気づいても出せないと火の神の死体から出た神々との対話を繰り返すこととなりループする思考を生み出します。

イザナミを生き返らせること!(正常な対話を復活させる)

自我がネガティヴマインドに取り憑かれているのですから、ネガティヴマインドが「無」に帰還して存在していない愛の目覚めを起こせればイザナキとイザナミとの呼応するやり取りは正常化するものです。

大体は蘇生を失敗して黄泉の国に送ってしまいます。道反の大神(チガエシノオオカミ)という石で道を封じてしまい、真我(イザナキ)と自我(イザナミ)の美しい呼応した生き方を諦め、閉じ込められたイザナミは黄泉の国(自分の事しか考えない自分と同じ姿を映し出す人たち)で生きるしかなくなります。ここからの復活は大変です。

ネガティヴマインドに呑み込まれないものの、上手にコミュニケーションが家族や他人と取れない時は、イザナミが火の神、火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)によって死に、その死に気づかずイザナキは火の神、火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)の対話を眺め見て傍観しているのです。

イザナキが気づいて十束の剣を振るえた時、武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)が登場します。

武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は何するの?

十束の剣で火の神から八神が血から生まれると古事記、日本書紀などで書いてあります。

十束の剣

  1. 石折神(いはさくのかみ)

  2. 根折神(ねさくのかみ)

  3. 石筒之男神(いはつつのをのかみ)以上三柱の神は、十束剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。

  4. 甕速日神(みかはやひのかみ)

  5. 樋速日神(ひはやひのかみ)

  6. 建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)別名は、建布都神(たけふつのかみ)別名は、豊布都神(とよふつのかみ)以上三柱の神は、十束剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。

  7. 闇淤加美神(くらおかみのかみ)

  8. 闇御津羽神(くらみつはのかみ)以上二柱の神は、十束剣の柄からの血より生成された神々である。

Wikipediaからのコピペですが、6番目に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)=武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)がある。

これらの神の祈りの力が合わさって十束の剣の真の力が発揮でき、元のイザナミに戻せるというイメージなのです。

武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)の力はその中でも癒やしの中心的な役割を果たすものです。

①石折神(いはさくのかみ)

絶対許せないものに許しを与える。

②根折神(ねさくのかみ)

自分の信念を疑い、価値観の全く違う相手に従う。

③石筒之男神(いはつつのをのかみ)

魂の声を隠して鬼の声に従って来た内訳を告白して懺悔する。

④甕速日神(みかはやひのかみ)

そのまま利己的なエゴに従っていると自滅することが自分で明白になり、それは真心ではないと気づき改める。

⑤樋速日神(ひはやひのかみ)

何度も同じ事を繰り返していることに気づき、このループから抜け出す方法を降伏して明け渡した境地で相手に従う。

⑥武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

関わる人の縁の始まりを繋ぎ合わせて無に還すことで、火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)は生まれなかったという「全ては幻だとして信念体系そのものを無くしてしまう」ことをする。

⑦闇淤加美神(くらおかみのかみ)

辛く苦しく絶望的な体感覚を共感することで慈しみを与えて、対立する意思そのものを消し去る。

⑧闇御津羽神(くらみつはのかみ)

間違った概念形態を維持している観念の歪みを明確化して見せ、誤解していたと自身に気づかせ、真理からもたらされた新しい智慧を与えることで解釈を整える。

これが十束の剣という神名「天之尾羽張(アメノオハバリ)」という神剣の神通力です。

ググると出てくる武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)の最強説は、これを見ても効能として「無」に回帰させられエゴでいられなくされてしまうのですから当然の理由とも頷けます。

火之迦具土(ヒノカグツチノカミ)という火の神がイザナミから生まれなかったとする力なのですからそりゃ、哀しみを消し去るので黄泉の国にいようが芦原中国(あしはらのなかつくに)にいようが、高天原まで改めてしまう力があるとしたら最強と云う他ありません。

時を無くす神

武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は、時間を「無」にし「今」に改めてしまう「目覚めの神さま」なのです!!

※ここでの八神の効果の紹介は「一部分」でしかありません。

古事記や日本書紀って何?

神話に登場する様々な神さまは、心がどのようなものとして具象化し、現実化へと繋がっているものを端的にまとめ上げたもので、その神々の名前に含まれている「コンテクスト(context)」が大切なのです。

しかし、読み物を解明するとき書いてある「コンテント(contents)」に注視してしまい、問題の本質を紐解くことは不可能になります。

私自身、こうして伊弉諾(イザナキ)、伊弉冉(イザナミ)を紹介しようと書き始めて「呼応する『息』」を指し示しているものだと解り、捉え違えしていたことに気づき、このnoteを書くことで改めることができました。
常識として培われたこれまでの解釈が自分の意識の使い方を鈍らせて解らなくさせてしまうのです。

全部を解明するには真理からもたらされる智慧から、「自分だったらこうやって残す」として記されたものが古事記であったり、日本書紀であったりするのです。

「コンテント(contents)」とは

内容・表示・中身・価値・解釈としたもので、現実に対応出来るマニュアルとした教科書的なものを指す。
古事記や日本書紀などを文字通りの物語から類推できる可能性を紹介することはできても、生きた現場となる「今」に役立つものにならない時もあるもの。

コンテクスト(context)」とは

状況・生体(反応)・文脈・対応・背景としたもので、今、在るべき姿として臨機応変に適応する力が求められているもので生き様や存在感そのものとした在り方そのものを指す。
古事記や日本書紀を記して、そこに含まれている本質的な神との対話や、意識の有り様を口伝で届ける為のもので、実際に神の力を具現化できる人が注釈を入れなければ無価値に等しいものとなるものです。

教義

神道における教義らしいものはなく、古事記や日本書紀を読んだから道徳的何かに気づけるかというと難しくある。
形だけは残されていて、その形から何を閃き答えを掴むかは当人次第になる。
自分だけの惟神の道(かんながらのみち)を歩めるものなのです。

古事記や日本書紀から心を癒やす道、神への道を掴み取るものなのです。
黄泉の国に墜ちていたとしても道反の大神(チガエシノオオカミ)という大きな石(意思)により、ネガティヴな関わりは一切通さないとして追いすがる伊弉冉(イザナミ)を封じてしまうことでネガティヴマインドでは願いが叶わない世界を現していたのです。

LINEなどメールやコメントなどで既読スルーがなぜ起きるか?

それは文字や言葉の中にネガティヴさが含まれていて、返事をすると答えた人が黄泉の国に連れて行かれてしまう為、伊弉諾(イザナキ)が助けに行っても伊弉冉(イザナミ)の返事の仕方が醜悪さそのものだとしたら応えられなくなるものです。もしくはド忘れしてしまうなど返事が生み出されなくなるのです。
関わりがネガティブだと気づかないために無視した相手が悪いとなり、喧嘩が勃発したり、常に相手のせいとなる欠点をついて「愛を探そう」としては愛されない現実を突きつけられては泣くことになるのです。
道反の大神(チガエシノオオカミ)の石(意思)を動かすことができずに、気持ちはあっても動けなくなるのです。
LINEなどメールに限らず、学校に行けない、会社に行けない、行こうという気持ちはあっても現実が動かない事もこれらに該当するものです。

道返の大神(チガエシノオオカミ)

やり方が違うことを教えてくれる神さまだと思ってくれると、不登校が治らない、稼ぎが上がらない、集客がままならないなど、色んな事がそもそも間違っていることを現実化させないことでサインを送ってれくれる神さまです。

高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)と黄泉の国、高天原と黄泉の国の間にある石(意思)です。

「私には関係ない」、「私は興味ない」という石(意思)で現れる

一度、伊弉冉(イザナミ)が火の神により死に、嘘の心で生きるようになるとそのエゴである火の神こそ自分だと信じて生きるようになるので、自分の心を自分で疑えなくなるため、道返の大神(チガエシノオオカミ)に遮られることで伊弉諾(イザナキ)を酷く嫌うようになるのです。

本質を解き明かす人ほど嫌われる世界が生まれるのです。
みんな黄泉の国であれば平和であるけれども、葦原中国(あしはらのなかつくに)や高天原の住人など識別する世界が現れると差別が生まれるからです。

玉石混淆(ぎょくせきこんこう)である方が、何が何だか解らずにいられるのです。その方が平和のような気がするのです。もっとも魂の声を上げられないので、黄泉の国には鬼同士のやり取りばかりとなり、疲弊ばかりとなり、踏みつけ合うことで高みに登ろうとしては転げ落ちる世界に留まるようになるのです。

これらを解説すると、それ自体が軽蔑や嫌悪の対象として自分の姿を映し出す他人を見てしまい、「錯覚だから目を覚ましなさい」と声をかけても体感的に信じられないために声が届かなくなっている事実が「道返の大神(チガエシノオオカミ)」によって声が遮られて届かないことが表現されているのです。

武甕槌(タケミカヅチ)の前に

十束の剣で火の神である火之迦具土(ヒノカグツチ)を斬った時に血から生まれた八神の働きを身つける必要があります。

石折神(いはさくのかみ)という意思を折ること、つまりは「許し」を獲得することぐらい愛のある智恵を持たなければ話しになりません。建前ではなく「素で許せないことを許すに変えなければならない」のです。

根折神(ねさくのかみ)といいう根を折ることなる「根本的な価値観や解釈を屈服しなければならない」のです。自分で自分の価値基準の根源を改めることが出来ずに武甕槌(タケミカヅチ)の力など持てる筈もないのです。
自分のそもそもの発想を見る力、着眼点とした出発点を見つけて、「絶対私は正しい!」と言い切っているレベルから「絶対私は間違っている!」と言い切るレベルに大転換させる力のことです。

この二つの神に祈り、力を授かり価値観の大転換を起こせる意思がないなら神道を行くことは困難です。礼儀作法や祝詞ばかりが神道ではないのです。

実践して、祈る人へ宮司や巫女などがサポートして、失われたと思い込んでいた愛に目覚めることで閉ざされた心が開かれる場所が神社である筈です。



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