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見えない愛を探す 十一面観音

リーディングマスター・まさみちです。心を読み解くプロフェッショナルとして心理カウンセラーとして活動しています。お遍路歩きを始めて、ついでに仏像にまつわることを記事にしてみております。長いの、眠いの、文字が滑って頭に入ってこないと不思議なことが起きる文章を書いています。(81/88)

88カウントしているのも、八十八カ所のお遍路数字にちなんでおります。

やっていったら何かあるとしてやっております。

何が起きるかは解りませんが、願掛けみたいなものです。

実践して、実験して、その結果がどうなるかは見てみないと解らないものです。

実際にこのように仏像にまつわるリーディングをすることで、発見することの数々がありました。

なにぶん、収益化や既読者数を増やしたいという願望が薄い理由もあります。

「読み手を意識されて表現されるものに魅力を感じない」という性格の為か、「困難に直面したら改めるだろう」という楽観的な気持ちもあり、目の前に届けられた問題をリーディングによって一つ一つ外している生き方をしております。(※今日は、飛行機の離陸直前の点検で、ドアトラブルが発生して、飛行機を乗り換えて一時間半遅れた事実が、とんでもない世界の問題を抱えていたことを知らせるサインとわかりました)

こうして書き続けている内に、何がこんなに人と違うのかを発見していこうという姿勢であります。はい、自分はとてもマイノリティ(少数派)である性格である為、世の中に出回っている情報では、自分の生き方を上手にコントロール出来ないと気づき、リーディングという天と交信して、閃きのみに超絶依存して生きてみたらどうなるのか? と実験した生き方をして今に到ります。

「今を生きる」という極みをやっていることに気づいたら「悟りを開いていた」という感覚であります。独自で悟るのですから、マイノリティ(少数派)であるのも頷けるものです。

地獄道 - 聖観音 
餓鬼道 - 千手観音
畜生道 - 馬頭観音
修羅道 - 十一面観音
人道 - 准胝観音
天道 - 如意輪観音

六道輪廻の救済に当たる、六観音にフォーカスして記事を書いております。

修羅道からの救済であるのが十一面観音のようですが、十一面千手千眼観音とダブり過ぎて、尚且つ手が少ない分見劣りしてしまう観音さまであるのが身勝手な印象です(打つ手が多い千手観音と、打つ手がない十一面観音ってイメージになりません?)。

と、先入観バリバリに表現しています。

悟りを開いたところで、リーディングして読み解きに行かなければ、知らないものは知らないままです。知る方法が少しだけあるというレベルです。知りたければその道のプロから学べばいいし、無ければ研究し開発すればいいものです。

親子喧嘩も、上司と部下の気まずさも、夫婦のいざこざにおいても、丸々全部、「知らないこと」が原因でしかなく、相手と共通の認識においては対立しないものです。

しかし、同じ共通認識だったにも関わらず、意見が変わったり、言い出した相手に合わせて自分の意見を退けたにも関わらず、相手までも意見を退けてしまい物事が決まらなくなる瞬間などがあります。

前に出ようとすると、後に引っ張られる。

では、後に向かおうとすると、前に出られてしまい行く先が入れ違いばかり起きて嫌になることがあります。

押すと押し返し、引くと引かれるのです。

つまりは、動かない状態に陥るのです。

修羅界や修羅道は「争い」や「戦い」といったイメージが付きまといます。

マンガやアニメなどの物語の中では「戦うことしか生き方を見出せない」みたいなシーンがあり、「修羅の道を行くのか」と、諭そうとしても言うことを聞かない主人公が「強さ」などを求めたり、「弱きものを守る為」だったりして、上を目指していくような展開が王道ストーリーとしてあります。

みんな戦いが好きなのです!

みんな痛いのが嫌なので、リアルよりマンガやファンタジーの世界や、ゲームの世界に喜びを見つけ、血眼(ちまなこ)になって遊び抜いているのです。夜通しでゲームなどして、心血を注ぐのです。

それがスポーツなら許されると思うのか、ゴルフに熱中する人、ジョギングを欠かさない人など、健康的な理由など付随させられるなら、趣味でも許される趣味だよね? 「いいよね?」と思うものです。

これがファッションや化粧などの身だしなみに走り、裁縫からオーダーメイドで服を作り上げる人もいます。創作料理や、調理道具の工夫を凝らすことに余念が無く,夢中にハマり込んでいるのも「実生活そのものだからいいよね?」と思うものです。

さらには夢を与えたいと思うようになると、オモチャ作りや、それにまつわる創作話などマンガやゲームを開発して、商品にして提供すること一心不乱に取り組む人も「夢を与えているからいいよね?」と思うものです。

どれも、これらは、どこからか批判されることを恐れている心が隠れ潜んでいるイメージが拭えません。

だから人が一生懸命に取り組んでいる人に対し「他にやることあるでしょ?」と言われることや、「一人だけで楽しんでいるだけじゃない?」と言われたりすることがあり、それがとても嫌な感覚を抱くのです。

「趣味くらいいいじゃないか」

「このくらいいいじゃないか」

「健康志向の何が悪いの?」

「生活そのものに文句言わないでよ?」

「私が何をしたっていうの?」

などなど。

「その程度では駄目じゃない?」と夢中になっている気持ちを冷ややかに伝えることや「なんか変なことにハマり込んで気持ち悪い」と、一心不乱に取り組む姿勢全体を批難されるなどして、やる気になっていた気持ちの行き場を失うのです。

その為、いつも戦いながら「これでいいよね?」「これでいいに決まっている!」と、どこからか叩きのめされることを恐れているかのような姿勢の中で頑張るのです。

「嫌なことを言っている奴は放っておけ」

「知りもしない人をニュースを見て、批判やバッシングに時間を割くのはもったいない」

という真っ当なことを教わったとしても、「批判されたら無視出来ない」ものですし、「傷つけてくる誹謗中傷を投げかけられると辛いし泣きたくなる」のは、「無視しろ」と言われても従えずに、打ちのめされてしまうのです。

何故なら、Aさんが、「嫌なことを言っている奴を無視しろ」と言っているなら、このAさんの言葉そのものに、このAさんのことを嫌なことであるなら「無視しろ」と命じているからです。Aさんのいいところは肯定し、Aさんの嫌なところは無視することを習った通りにやり始めると、言っている本人とは違う苦しさを少尉込むことが起きてきます。

グルグル巻きになっている、「部分否定」が辛くなるのです(このニュアンスがわかるといいのですが、渦巻きのようにAさん自身のマイナス要素が、聞いている人の中に蓄積されていくイメージのこと)。

これが類は友を呼ぶ関係になり、同調、共感が生まれる者同士が集うようになり、問題の根底を解き明かせない人たちで囲まれてしまう為、問題を解き明かせなくなるのです。

この時、上に立ちたい人(否定されず、肯定されたい人)は、同調や共感を生む方法として、共通の敵は極力少なくしつつ、味方であることをアピールすことが大事になるものです。

マンガばかり読んだり、ゲームばかりする人は、共通の敵は多く、味方は少ない味方は一緒に居ると頼もしい感覚になるものです。

スポーツで自分の時間を大事にする人は、共通の敵は無関心であり、仲間は多い方が分かち合えるものが得られていい感じになるものです。

服飾や料理など生活に密着するものを大事にする人は、敵は少なくなり、興味関心を持つ人が多く、また競争も多い為、人柄によりいい感じにも、悪い感じにもなるものです。

夢を売る人などは、夢を買いたい人の周りにいる敵は、実生活の中で否定する存在である為、買いたい人の気持ちを支えつつ否定する存在を敵から味方に転じさせる物語展開だと好まれるものです。

しかし、夢を売る人にさえ、その物語の中で敵として扱われる側の感覚がある人は、気持ちよくないので対立するものです。

これが、「否定しながら肯定する戦い続ける修羅」の構図です。

例えば、「老害」という言葉があり、「老害」とした批判的意見を使う人は、「自分が年老いたら、もしかしたら今まさに、若手からは老害扱いされているに違いない」と、割り切ったものの見方をするものであり、自覚している被害者であり、加害者とした意味合いになります。

自分より年上には「老害だろう、若手に道を譲れよ」と、被害者の味方につきつつも、同時に自分が既に「老害対象者であり、無意識に若手の道を阻んでいる」と、加害者を自覚しながら、心の無意識までは世話は見られないので、「老害なら倒してください」と言いつつも、「戦いを挑まれたら、ただでは負けたくないからやり返しちゃうかも?」と言っている状態のものです。

強い権限や、権力や、資金力などある強い存在は、無意識である部分を「攻められても、意味がわからない批難である」ことなど、聞き入れる必要性が解らないので、戦いを挑まれたら叩き潰すことをやってしまうのです。

仏教の中でも三業という「貪る、怒り、愚か」という問題は、社会情勢を見ても「格差社会があるから貪る」ものですし、「小さい声(市民)が大きい存在(政府)に届かないから怒る」ものですし、「暴動や武力による政権批判や、政府打倒を訴えても力押しでは勝てる訳もない明らかに負けるしか道がないのに挑む愚かさがはびこる」ものからも、よく理解出来ます。

これを一人の個人の心の中を見ると、「本音と建て前の格差があり、着飾るみんなの前と、部屋の中の散々たる荒れ方があるから貪る心が治らない」ものですし、「小さく未熟な心の声は、小さくて大いなる仏であるわたしには届かないから、怒るしか手立てが無いので訴えるものの返事がない」ものですし、「親や上司など力がある人たちに逆らい、そんな育て方では解らんよと、愚かな行為を人生を賭けて実践しつつも、状況が変わるはずもなく、それでも続けてしまう」ものなのです。

三業という「貪る、怒る、愚か」というものは、仏性とは絶対関わらないという、あんたらのせいだと罵る気持ちを消すことが出来ないジレンマがあるのです。

「嫌なことは嫌って言っていいよ」

「好きなことをして生きて行こう」

これを合わせると、修羅界に入り込み、戦いの連鎖が始まり、小さくは家族紛争ですし、大きくは国家クーデターなどの武力衝突まで、フラクタル構造として小さくも大きくも同じ相似形で具象化しているのです。

業(カルマ・行為)と呼ばれる問題なのですから、「悟りを開いた人」でもなければ、問題解決などする筈もないにも関わらず、どの学者も政治家も活動家さえ、「悟りを開こう!」と呼びかける人もいなければ、「悟っている姿」で関わる人さえいないものです。

当たり前といえば当たり前なのかも知れません。

「小さい声を、大いなるわたしである仏や神が聴いてくれないから怒っている!」

という事実があるので、全部が全部、神仏の責任であるのですから、神仏=当の本人自身、という辛辣な事実があるのですけれど、それを認めなければ個々人の「真実」にはなり得ませんから、「人のせい」に出来るという思い込みが消え去るその時まで、この三業という「貪り、怒る、愚か」は無くなるものではないと易々と想像出来るものです。

だから、打算的になり、「嫌いな奴は嫌いでいいし、好きなことをして元気に夢中に頑張ればいい」という理屈に集約されていくものです。

どこかの誰かの「批判」にさらされながら、その批判に負けないように否定には否定で返し拒絶には拒絶で返し無視には無視で返すことで「住む世界」を確保して生きるのが、『慎ましく生きること』などとして、「今を生きようとしなさんな!」と、感性が自然状態に戻るのを防ごうとするのです。

「今を生きる」とは「自然と一つになること」であり「心地よい健康的な在り方」で振る舞うものです。エゴは、それを阻むものですから、「愛など存在していたらたまったものではない理屈」は知っておいてください。

どこかの誰かは、誰かを批判し、批難するものです。批評でもいいです。善し悪しの判断を下し、正義の名の下に裁くのです。否定し、叩き、潰し、再発防止の為には死刑でもなんでもして切り捨て、排除するのが一番社会にはいいものだと考えつくのです。

そして、「排除するのでは無く、循環させようよ」と代替え案を伝える存在がいても、「排除派」について、その歪んだ排他的価値観は受け入れつつも、それでも100%肯定する価値観を持っている訳では無く、「気持ちはわかるけど」という理屈で説得する価値観で関わろうとするのです。
これが「肯定する部分もあれば、否定する部分もある」ものです。そして「全否定」は割と簡単にできるものですが、「全肯定」という賛同者に成りきることが困難なのです。

「格差社会に不満を撒き散らすだけに徹すること(貪る)」「小さい声が届かないと暴動の限りを尽くす側に加担し切ること(怒る)」「強大な相手に武力で決起して玉砕を敢行すること(愚か)」に邁進してみせる心が先んじて必要だとするなら、可能かどうか考えてみることです(※これは仮説が可能かどうかの問いかけですので、この例題で身体を使い行動を移すよう促すものではありません)。

修羅界で迷う人たちは、総じて賢いです。

それで居ながら、戦いに埋没してしまう事実が見えないものです。

うまく行かない道だと確定しながら、その貧しさや、怒りや、愚かしさに全身全霊を賭して取り組めないのです(悪い、よくない、他に方法がないから仕方がないと、解っていながらやってしまう行為なのです)。

これが意味することは、その「うまく行かない道」だと、自分自身が深く納得し、合点を得られる「気づき」に到っていないのです。体感したものではなく、知識で判断し、予測で回避することの賢明さを伝えようとするのです。

「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」

という言葉があります。

「歴史を築き上げたのは、総じて愚者」です。

その「愚者によって培われた歴史から学んだら賢者に成れるか? と問いかけること」をしなければ、それは確立出来るものではありません。
悟りを開いていないなら、それは賢者と言わず愚者のままだと定義すべきことです。

「愚者の歴史から学ぶ賢者と名乗る愚者」なのです。

それ故に、伝えられないもどかしさをどこまでも残し続ける世界なのです。

どこまで修学(受)しても、修練(想)しても、修行(行)しても、修理(識)しても、最初から最後まで間違っているという解釈を見出せない者に、六道輪廻から抜け出せる筈もないものです。

客観視が主観性の中の解釈でしか無いと見抜いている知性ある賢者なら、三業の貪り、怒り、愚かに迷う心の救済から取り組むものです。

十一面観音は、「あらゆる価値観を主観性による解説してみせられる眼差し」を始めから持ち得ていることを示するものです。「見えているものには気づかないものであり、見えているものをただ肯定して気持ちを一つにすることで解決するもの」とした存在そのものを示す仏性です。

例えば、「光」は透明である為、何か対象物を通して屈折することで眼球に光が届き、赤レッド、緑グリーン、靑ブルー、などの光の三原色と、反射することで眼球に光が届く、水シアン、朱マゼンタ、黄イエロー、色の三原色になるものがあります。

そこに透明な「光」が常にあることに気づけないものです。

必要があるのは、「透明」ではなく、「色」の方であるからです。

この比喩により、必要があるのは「愛」ではなく、「愛の偏りで出たもの」となります。

※愛の定義、「直接対話し、肌身で触れ合える距離にいて、否定しないこと、否定を思いつかせぬこと、恐れを抱かず、抱かせぬこと、比較せず取引しないこと、比較したがらず取引を思いつかせぬこと、歓喜を与えること、歓喜を覚えさせること」となる前提での論理構築です。

当たり前にありすぎる「愛」には関心が向けようにも向けられなくなるものです

悟っている状態は、本来誰もが持ち得ている当然のものですが、そんなありふれた当たり前のものに関心など向けられることがないのです。

それよりも「欲を貪り」「権力に怒り」「無知である故に愚か」となる方が、「感情豊かに心貧しく」なることが出来、「弱者を守る為に、強大な存在を否定する力を欲して怒る」ことが出来、「どんなことでもプライドだけは捨てないと戦わなければならない時があると特攻する美学に酔いしれる愚かさ」があるのです。

このような「貪り、怒り、愚か」に陥る心を誰か人のせいにしている状態「修羅」と表現するのです。

抜け出そうとしながら、自分で傷ついた足を、足手まといだと称して、切り捨てて、切っても、切っても血が止まらず、痛みが止まず、立ち上がれないことをまた、傷ついた足を責めて、叩いて、切り刻むのです。

「人と嫌い合わないように」

という言葉は、「自分の手足を、自分の手足だと気づけなくても嫌うことはしないでね」という意味合いなのです。

十一面観音は、通常の顔を含めて十二の面があります。

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十一面観音は、人のあらゆる性格や心の動きの全てを見透すものとした意味があります。泣いていても、泣いている自分を見ている仏性があります。怒っていても怒りながら状況を把握している仏性があります。様々な側面の全てを認識している十一番目の眼差しが開眼している状態の仏性です。

これは男女が心を一つにして、右眼担当、左眼担当となり、それを両眼合わせた焦点の合致している眼差しの部分を指す仏性なのです。

男性の眼からも十の眼を持つことが出来、縦の眼横の眼を持ち合わせられるので、男性の眼だけでも女性の言い分を理解しているつもりになれるのです。

しかし、この十一の違いは、一を伝えれば十がわかり一から十までを伝えた時、一が解らなくなることを好意的に受け入れているのが十一面観音なのです。

世の中の常識など、誰が見ても同じ解釈に到る前例があるものであって、一から十まで説明したとしても、新しく一の疑問や、盲点を見つけ出して変化を生み出す眼差しのことです。十一面観音はそれを承知して受け入れられる為、一から十まで解った男親であっても、娘の一の意見が途方もない前例がない問いであっても、答えを生み出したくなり、一緒に答えを見つけて娘と共に喜ばせたい気持ちのことです。

これが他人や、生徒であって娘と同様のことが出来れば良いのです。

女親なら、一から十まで教え育てるなら、それで充分に社会に通用するものとなるのです。それが息子から一の意見や疑問が飛び出したとき、社会から排除されたり、抹殺される危険性のある問いかけであっても、息子の一の意見を封じるのでは無く息子に従い一から十まで全部間違いだと認めて捨て去り息子の一の意見からやり直すものを女親だから出来る力があると示すのが十一面観音の仏性なのです。

でなく、親であることです。

でなく、親でなければならない時が生まれることを承知でいることです。

とは、「人との関わりにおける障害を事前に与え、それをどう解釈し乗り越える知性を与え、問題の解き方や、未知なる世界への踏み出し方を育てるもの」のことです。

男親とは、「多数意見が結集すると大きな力になるものの、大きな力である故に自分たちでコントロール出来ない重大な過失を生み出すことがあると知らせつつ、それを引き留めるには、全員の負を背負い込んででも新しい発想を導き出し、手間を惜しまず、過失を責めず、罰からは何も生み出すものはないと気づかせる為にも、自分たちを育ててくれた親との繋がりを切ることで、『親切心』を呼び覚まし、価値基準が伝統に則るだけに陥り、自身の閃きの主観で生きていないことを思い起こさせ、新しい道へと踏み出す勇気を示すもの」のことを示します。

とは、「どんな時も味方になり、安全地帯だと安らがせ、苦痛を取り除いた中でしか素直に成れないものだと感じさせてやり、何を人前に見せて良いのか、どこまでを母に見せてもいいのか、母と恋人と妻となる愛する人との差を教えてやり、異性はわかり合えないほど感覚の相違が存在するから、無条件に信頼出来る相手を見つけたいと思うときと、母との決別は同タイミングになるものだと教える存在」のことです。

女親とは、「多種多様な価値観や、頑固な固執する価値観など譲れないものを持ち合わせるものが人であることを伝え、言えない生い立ちがあるものであり、思い出せない心の傷があり、二度と希望を持つことが許されない未来があり、存在そのものを否定されたまま現在を死んだように生きている人がいることを教える存在です。何も始められない人もいれば、何も終わらせられない人もいて、その全ての人たちの唯一の友だちになれるように触れ合い方を学ばせ、真新しい価値観を、今までを消し去り、今からを生み出せる存在として信愛を持って接することを伝える存在であるもの」のことを示します。

容易い指標ではないものは承知であるものの、こうした男親女親が揃い、本質を伝えられる力を持つ心のことを十一面観音の仏性と表現するのです。

男親無条件に女親を信頼し、伝え方が下手であったとしても、「こう伝えようとしていたんだ」と、母からの愛も、父からの愛も解らずに泣き続ける子が居たとき別の男親や女親がサポートに入り、補うことが出来れば、その家族は破綻することなく『修復』の道を歩めるものです。

「修羅」の世界は、「いつか」を信じて修学(受)し、修練(想)し、修行(行)し、修理(識)しては、何か新たな道を切り開こうとしても、どこかに破壊(受)を生み、犠牲(受)をもたらし、強欲(行)だと罵られ、落第(識)してしまった親だと嘆き崩れるのです。修復する世界がもたらされるのです。

終わることのない努力の世界を、巡り巡って途方に暮れるのです。

十一面観音は、「全部知っているよ」と告げてくるような「心の中のお天道様」のようなものです。

どんな姿や内心を覗き見ても、嫌わずに付き合ってくれる仏性です。

そして、底抜けに明るく、全てを照らしてしまえるほどの光の存在ですから、暗黒に呑まれている心ですら、たちまちに暴悪大笑面という力でもって、悲劇を喜劇に変えてしまうものでもあります。

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後頭部にある「暴悪大笑面」は、十一面観音の男女の眼差しが焦点を合わせ、全部丸ごと誤解と錯覚のものだと理解出来たときに起こる大笑いです。

十一面観音からの指摘は、笑いを堪えられるものではありません。

問題の謎が全て解かれ、「なんだ、そういうことか!」と合点がいくと、哀しみも怒りも消え去るものなのです。

貪ることもやめ、怒る必要性がないとわかり、愚かしさが愛おしさに変わるものとなります。底抜けに優しくなれます。

十一面観音は、導き手の仏性でもあり、本人が気づくまで地獄でも修羅でもどこでも付き合ってくれますし、一切注意しません。

「慎重にせよ」とも言いません。

「部屋を片付けなさい」とも言いません。

そんなものは「魔物だ、バーカ! 引っかかってんの」とこっそり思うだけで、言いません。

魔物や悪魔の囁きだから、「慎重に出来ない」し、「部屋を片付けられないまま」なのです。こんな至極当たり前のことさえ(言うことを聞かなければならないと思いつつ、思うように言うことが聞けない事実は、言うことを聞かせようとする存在が悪者だと感じているなら無意識に抵抗し続ける事実があることを理解する知性が欠落していることを指す)、この世界は「その人だけにわかるように教えてはくれない」ものなのです。

これまでの世界は、多数の人が解れば、少数の人がついて来られなくてもいいのです。

合格と不合格という条件を定めれば、幾らでも不合格として切り捨てていくことを正当化する社会として成立するのです。双方の同意で決める世界ではなく、一方的な基準を作られ、それに満たなければ堕とされる世界です。

それを全員が望んでいるなどというなら、おかしな世界です。

この世界は、悪魔に乗っ取られていますし、魔物の巣窟と表現する方が妥当な世界観です。正直者が馬鹿を見るように作られている世界です。日本は足の引っ張り合いこそが唯一の楽しみとでも言うほどに、可能性を開こうとする人を「否定から関わる」慎重論と称するダメ出しで潰しにかかる世界です。

「修羅界」と言ってしまえばそれで片付くかも知れません。

「六道輪廻だから」と片付ければ、納得出来るかも知れません。

たくさん存在する十一面観音像などの効果や使い方を伝授する者たちはほぼ居なくて淘汰され、ただ「手を合わせて拝むだけの存在」に奉られていて、美術品として「美しい造形だ」と、評価される部分「そこ」じゃないでしょう? とツッコみたくなる世界です。

ワークを教えます。

十一面観音を最下層をゼロにして、零、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一と縦に十一面観音を十二体並べ立てます。一つの物事に対して、自分の「色受想行識」全部を零にフォーカスを与えて考える。一にフォーカスを与えて考える。二にフォーカスを与えて考える……ことをやり、高めていきます。十、十一まで続けます。それにより、十二通りの答えが得られます。これは質です。自分が気になる問題があり、それについて問いただす時に、低い視座、高い視座を細分化して見極めようとする心の働きかけが大事になります。
十二通りの意識の合わせ方から、人とのトラブルを思い出し、その時の状況シチュエーションを全部含めた上で「爆笑するオチをください」と問いかけてみて、十二パターンの解答をもらってください。

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これを男性からの問いかけと、女性からの問いかけ陰陽それぞれでやってみることです。その両方が出来るようになったら、男女合わせた状態での問いかけをやることです。全てが出来れば十一面観音の仏性を掴むことが出来、修羅界に墜ちている人たちの救済も可能となります。

ちょっとハードル高いかも知れませんが、頑張ってみてください。

道があることを知れたことで喜べるあなたは愛の人です。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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