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「名探偵の掟」東野圭吾(1996)―探偵もつらいのよ。―

今回読んだ本

東野圭吾(1996)「名探偵の掟」

 事件あるところに颯爽と現れ、難解な謎もトリックも名探偵にとっては朝飯前。どんなトリックも看破し、犯人の動機も論理的に推察していく。ああ、なんて名探偵はすごいんだろうか。
 普段ミステリーを読まれる方は名探偵の推理による清涼感を求めてあらゆるミステリーものを読んでいるのでしょう。

 本作はミステリー小説における掟―ルールーを材料としてコミカルに、そして、皮肉的に小説家にも読者にも問いを投げかけていく作品である。
 というのも本作に登場する刑事の大河原番三、名探偵の天下一大五郎は、自身を小説世界に登場するキャラクターとして認識しているのだ。
 フィクション世界のキャラクターが、フィクションに生きていることを知っていて、読者に話しかけるように小芝居をうつというのは、いわゆる「第四の壁を破る」というものになる。

 さて、この刑事と名探偵の二人だが、まあよく喋ること。喋るのである。やれまた密室事件だ、アリバイ崩しだ、奇想天外なトリックだなどミステリー小説に良く出てくることに文句を垂れるのである。
 あるある言いたいではないが、ミステリー小説を少しでも読んだことのある方であれば、クスリと笑える箇所がとても多いのが本作の魅力である。

 ただ、藪から棒に文句を投げかけるのではく皮肉めいた文句は読者に当てられているものもある。
 ミステリー小説には館ものをはじめとして作品舞台の間取り図などの図面が添付されていることが多いが、誰も読まないであろうと本書では愚痴を垂れる。
 ページの一言一句を目ざとく追いかけてその謎を探偵より先に看破してやろうと意気込む読者も中にはいるだろう。しかし、大半の読者が意識的、無意識的に筋だけを追いかけてなるほどそうだったのかと「読むだけ」を行っているのは事実としてあると思う。
 そういった姿勢に対して批判を投げるのは、小説家の生み出す辛さを表しているのかもしれない。

 本作は1996年発売であり、そのころから「わかりやすさ」を求める読者に対する不安感はあったのかもしれない。
 こと現代2024年においては、「わかりやすさ」は加速度を増しているように感じる。キャラクターの心情も含めた説明的なセリフ。時代背景・考証を横に置いて景色だけ切り抜いたようなハリボテの世界。非論理的なご都合ストーリー進行などなど弱いところを突けばいくらでも出てくるが、昨今の映画・アニメなどの人気作品にはそういった印象を持つ。しかし、人気であり、面白い。
 確かに、面白いのだが、インスタントなジャンクフード的な面白さであり、一口一口噛みしめてようやく深い味わいがでてくるものや何か身体の芯に染み渡るような面白さとは異なる。
 面白さのベクトルが違うと言えば、そこでお終いなのだが、インスタントな面白さばかりを需要すると、インスタントなものしか供給されなくなりやがては出涸らしのようなものしか残っていかないのだろうかという危惧もある。

 本作は、上述の通り一見するとコミカルにミステリー小説というものを描いた作品であるが、その実はミステリー小説における作家と読者の緊張関係の糸を再びピンと張らせたいという直球の投げかけがある作品だ。
 こういった二重構造は東野圭吾の十八番であると思うのだが、東野圭吾作品を多数読んでいる方は、本作をどのように捉えているのだろうか。

おわりに

 ミステリー小説とは、読者に投げかけられた作家との一勝負であるジャンルなのだろう。それをはたと気づかされたと同時に、受動的な読書という態度を改めねばと思わされた。
 とはいえ、毎度毎度能動的に読書するのも疲れる。生み出す辛さもあれば、読む辛さもあるのよ。たまには、ジャンクな読み方もさせてください。許してちょうだい。東野センセイ。


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