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夫婦のスタイルと社会階層

最近、友人夫婦を見ていて感じた。
「現代的な感性で古風な家庭を築く」ことは一種の幸せで、恵まれていることだと。

そして逆に「古風な感性の現代的な共働き家庭」が1番の地獄ではないかと…



友人の結婚

友人(INTJ)はバリバリ働いていた独立独歩女子。だが、ある時を機会に婚活に集中し、狙った通りの理系男子とスピード結婚をした。間をおかず妊活のためすっぱり仕事を辞め、現在は専業主婦で一児の母。
婚活▶︎結婚▶︎妊活▶︎出産を2年の間に達成した。
決めたことは最短距離で実現する有言実行のできる女だ。
(彼女と私と関係は下の記事参照)


彼女の夫は節約家で酒タバコギャンブル一切やらない。妻と子が推しなのでそれ以外にお金をつかうこともなく、趣味と言えば料理で食事の大部分は彼が作っている。
妻である友人は合理的なINTJなので、はしょるところははしょり、夫のほうが得意なことは夫に任せて上手に家事育児をこなしている。

今の彼女の気持ちを聞くと、
「自分はずっと1人で生きていくと思ってたから、今こうして結婚して経済的不安なく過ごせているのが不思議な感じ。自分で稼がなくても食べるものに困らない。快適でほんとにいいのかなって。この先大丈夫かなって不安はあるけどね」

それに対して彼女の夫の方はというと
「彼女と知り合って視界が2倍に広がった。新しい文化に触れたみたいだ」
と言い、ふとした瞬間に
「この結婚生活がすべて夢だったらどうしよう」
とゾッとするらしい。
服装にも美容にも無頓着でパッと見は世捨て人のような容姿だったのが、妻のすすめでさっぱりと気配りのきいた雰囲気になっている。

夫は結婚によって文化的で愛のある(失いたくないもののある)生活を手にし、妻は同様に愛ある生活と経済的な安心感を得ている。

彼らの姿を見て、「わたしたちの世代もこういう風に幸せになれるんだ…」と衝撃をうけた。

彼らの夫婦としての形は現代的というよりも昭和・平成的だ。
夫は会社員・妻は専業主婦という典型的な性分業型である。
けれど彼らの価値観・感性は古臭くない。
夫は家父長的な権威では無いし、料理もするし、最大限の育児もする。
間違っても「誰が稼いでいると思っているんだ」とは言わない。
妻は仕事に打ち込む時も家庭に打ち込む時もすっぱりしていて合理的だし、あくまで主体的だ。いざとなったら稼いでいけるポテンシャルもあり、専業主婦という立場に自分を固定しない。そこに主体があるわけではなく、便宜上の仮の立ち位置という感じである。

彼らは男が稼ぐべき、女が家事育児をするべきという価値観に囚われているわけではなく、自然に結婚というシステムを活用し、個性と経済性とリアリティの中で最善の手を打っているのだ。

最善の手が専業主婦という形になってしまうのはやはり性差別的な不均衡さがることの証左で社会問題でもあるのだが(仕事をしながら妊活するのは至難の業だ。女性にとって妊娠出産育児はとにかく社会的不利が大きい)彼らはその現実を受け入れてその中で最大限の幸せを引き出している。
非常に実際的というか、戦略的である。

こういう形でもいいんだ、というのを目の当たりにして私は目からウロコだった。
友人は結婚しても当然働き続けるイメージがあったから。
そして私自身、「夫婦として対等にいつづけるには働き続けないといけない」という固定概念があったから。

夫婦の4タイプ

ちょっと図解してみよう。

価値観(男女観)の古い⇔新しい
夫婦労働形態の古い⇔新しい
の四象限で考えてみると、下のようになると思う。

雑につくったもので申し訳ない

左上:the☆保守「男が家長、女は働くな」
右上:保守寄り折衷「男が家長、だが経済的には女も働け」
(もしくは「俺が許す範囲であれば働いてもいい」)

左下:リベラル寄り折衷「男女平等、だが女は戦略的に主婦でも良し」
右下:the☆リベラル「男女平等、だから女性も経済的自立を」

という感じで、ピンクはイデオロギーを貫いていてパープルは経済的に折衷案をとっているパターンである。

これでいうと、友人は左下の「リベラル寄り折衷」パターンにあたる。性差別意識が少ないカップルであるが、出産育児という片側の負荷を鑑みて、古典的な性分業形式を戦略的に選択している。

私自身は共働きなので右下の「The☆リベラル」なパターンだが、もし子供が生まれたら友人と同様に左下の折衷パターンになる可能性はある。
右下でいられているのはうちが今のところDINKSであり「NO KIDS」だからだろう。

友人の母は専業主婦、私の母は働いていたので、ふたりとも家庭をもつ上でそれぞれの母親像を参考にしているところがあるのだろう。

仕事をしていきたい女性にとっては右下のリベラルスタイルが、仕事をしていくことにこだわりがない女性にとっては左側の上下が、ベストなスタイルだろう。
正直女性にとって一番しんどいのは右上である。
保守的な男女観の中で女性も働く場合だ。

働くことに異論はないとしても「家事は女がやるもの」という規範がのしかかる。経済的に2馬力が必要でも「働きに出るのはいいけど家の中のこともちゃんとやれよ」と言われる。

日本社会においてはこのパターンがスタンダードのように思える。

4タイプにおける経済力の影響

この四象限で夫婦のスタイルを分類するにあたって、無視できない要素がある。経済力である
価値観やスタイルは選択できるはずだが、経済力の多寡によって選択肢が狭められる場合がある。

以下は、階層によってどこに位置することが多いかの勝手なイメージ図である。

個人的な見解なので注意

富裕層(資本家階級)
基本的に富裕層はどこにでも位置することができる(選択肢が多い)が、富裕度が上がるにつれ専業主婦割合が増えるというデータもあるので左に寄せている。

旧中間層
自営業や農業主の層で夫婦で家業を営んでいることが多く、厳密には”専業主婦”とは言えない場合もあるが、夫の家の職業を継ぐこと(男性長子相続)がほとんどなので左上の保守✕古風に位置している。
この層は政治的に優遇されていたこともあり長らく日本社会のミドルクラスを安定的に支えていたが、現在は層自体が縮小傾向にある。(ジェネレーションが移り、次の世代はローカル自営から都市部の新中間層や労働者層へと流れたためと言われている)
ジェネレーション的に今子供を持つ層よりも年齢が上だと思われる。

新中間層
サラリーマンのうちの専門職や上級職、自営している士業などの、いわゆるホワイトカラーだ。
意識的にはかなりリベラルだが(男女の性規範に縛られない)、実は専業主婦の割合が一番多いらしい。私の友人のパターンである。

一馬力で家族を維持する経済力がある場合、出産家事育児のことを考えると性分業が合理的な解にならざるを得ない。

これは社会において
①女性が財力を持ちにくいから
(富裕層に女性の稼ぎ手が少ない、上級職の女性比率が少ない、医学部受験の例…などに顕著である)
②出産家事育児に対する補償や理解が不足しているため
だろう。

私と夫は、この新中間層の共働き側に位置する。
しかしいつまでそこにいるかはわからない。
共働き夫婦のほうが世帯収入は高い傾向があるが、家事育児の総量が多いと単純な収入で割り切れない。子供が生まれると仕事との切り替えのハードさを実感するだろうし、ガラスの天井や、子供の成長を見守れない辛さを考え合わせて専業主婦を選ばざるをえないかもしれない。
そもそも今私が仕事をしながら妊活ができているのは、コロナによりテレワークが浸透したためであり、たまたまテレワークが可能な職種だったからである。偶然なのである。

労働者層
ここには正規労働者と非正規労働者層を含めた。
そのため経済力に幅があり、4象限のすべてに渡る。
私の両親はここの層のリベラル共働きエリア(少し新中間層寄り)に位置していた。

2人とも正規労働者だが、父は経営管理側に昇進して母は現場現役主義を貫いた。2人で示し合わせてそうしたのだという。
「2人とも昇進してしまったら家庭が崩壊するから」だそうだ。
昭和の人間にしてはリベラルな2人だが、そこにはやはり「俺よりは稼ぐな」の圧がそこはかとなくあったと思う。そういう時代だったから。

また、この層で専業主婦になるのは、
①家庭の経済力が強い場合
②妻の経済力が弱い場合
である。

①は想像しやすいだろう。収入が良かったり実家が太かったりして1馬力でも十分食べていける場合である。
②は世帯年収が低くても、専業主婦にならざるを得ない場合である。「妻が低スキル・低賃金なので外で働くよりも家で家事育児を行うほうがコスパがいい」という状態だ。
家事育児担当者が働くとそれを外注するコスト(保育費など)が発生するため、働くことで得る収入が少ないと意味がない。
夫側の収入が少ない場合は家事育児コストを分担して妻も働いたほうが世帯利益は上がるはずだが、多くの場合そうはならない。むしろ低収入の男性のほうが家事分担が少ないというデータがあるのだ。これは家父長制的な精神的・文化的な問題でもあるし、高収入のホワイトカラーのほうがワークライフバランスがよく低収入の非正規労働者のほうが時間的・労力的・制度的に余裕がないという社会階層の労働問題でもあるだろう。

女性側の賃金がぎりぎり育児外注コストを上回る場合は、右側の共働きが合理的選択となるわけだが、「家事育児は女の仕事」「だけど少しだけ女も働け(夫を超えない程度に)」という非合理な縛りの中で働くことになる。
心身ともにハードすぎる。
そんな状況を考えただけで目の前が暗くなる気がする。

しかしこの位置は多かれ少なかれ働く女性が通ってきた道であり、今もそこに位置する女性たちがいる。
ここに女性を置きたいと平気でいう男性が婚活をしているし、そこにいる女がいい女だと吹聴するような婚活エージェントもいる。

結論として

友人の結婚は、合理的で、愛があって、恵まれたものだ。
それを目の当たりにすることで私自身「そういうのもあるのか」と視界が開かれた。

ずっと、自分は働き続けなければいけないと思っていた。
リベラルな思想を持っているのだから経済的な自立をし続けなければならないと。

けれども必ずしもそうではなく、古風な専業主婦になる戦略をとってもいいのだ。むしろその戦略をとることができることは、柔軟な合理性であり、恵まれたことなのだ。

もちろん、それを知った今もこれからも、きっと働き続けるとは思う。
けれどもそれは「そうしなければいけないから」ではなく、「そうしたほうが自分らしいから」である。少し意味合いが違うのだ。

他の選択肢もあることや、他の選択肢をとる人の合理性や幸せもよくわかった。遠い存在であった専業主婦の姿を自分の中にも見出した。

と同時に、そういった選択肢をとれない人々がいることや、その中で苦しんでいる人、女性の選択肢を狭める要因が溢れていることを忘れたくない。

自分をどこに位置づけたいだろうか。
どんな結婚スタイルが自分の志向と現実にあっているだろうか。

どこであれ、皆にそれにふさわしい相手が見つかることを願っている。
そうでなければ結婚しなくてもいい。
女性一人が経済的に生きていくのが辛ければ、それは社会の問題だ。
皆でただしていくべき社会問題なので助け合うべきだろう。

分断している場合ではないのだと、この図を見ていて勝手ながら思うのである。









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