公共空間は誰がつくるものなのか
先日、ドイツ在住のジャーナリスト、高松 平藏さんを交えてオンラインサロンを企画してみた。
テーマは「市民一人一人が良き判断者となるために何が必要なのか」という若干硬めの内容で、人数も6名と少人数での対話だったが、なかなかに濃い時間となった。
話の中で、
「公共空間は元々そこにあるものなのか、それともみんなで作っていくものなのか」
といった問いかけがされた。
ドイツでは、公共空間は市民一人一人が守り育て、作っていくものだという概念が意識として共有されているそうだ。
日本ではどちらかというとお上が用意してくれるものという意識が強いだろう。
市民一人一人が良き判断者となるためには、それを育てる仕掛けが必要で、それは安心して対話できるような場であったり、適切な情報へのアクセス、歴史や文化情報のアーカイブといったものになる。
そして、そうした機能を担う学芸員や司書など、情報をキュレーションし、発信していく役割を持った人の存在が欠かせない。
ドイツでは、こうした情報アーカイブ、時には政治的な発言を行う人達の社会的ステータスが高く、社会全体で思想、言論を健全に行き交いさせる公共の在り方が広く共有されているといえるだろう。
先日、メルケル首相が、トランプ氏のSNS使用を制限したtwitter等の対応を批判したことがニュースになっていたが、これも、上に書いたような哲学が根付いていることを伺わせる。
noteのようなオンラインにおける言論空間の存在も重要だし、何より多様な考えを持った人がフラットに情報を行き交いさせられるような空間が、オンラインだけでなく、町のそこかしこに出来てきたら面白いだろなと思う。
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