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心というもの|-こころ 夏目漱石-

 心とは何なのか。どこにあるのか。心臓なのか、脳なのか。いずれにしても、自分の内側にあると考えることが多かった。だが、この作品を読んで、心とは「自分の外側にあるもの」だと感じた。  
 喜怒哀楽にせよ、自分の考え・行動にせよ、本当の意味で零から自分の内側から湧いてくるものはない。他者との関係や環境、何らかの現象によって生み出される。ある種、自分ではどうしようもできないところがあるのが心なのだ。そう考えると、自分の心が傷つくこと、他者の心を傷つけてしまうことは、ある種仕方のないことだと言える。そこに対する諦めや割り切りが、特段悲観的なものではなく、心というものと向き合う上で必要なのだと思う。その点において、先生やKはうまく向き合えていなかったのかもしれない。  

K

 『精神的に向上心のないものは、ばかだ』。先生がKにはなったこの言葉はあまりにも残酷だったと思う。それはKがどういう人物かを含めてだ。Kの心はあまりにも外側に依存していた。それ自体が悪いことではないと思う。「自分の外側にあるもの」に対して、それ自体が自分、それは自分の内側にあるものというような態度が、彼の人生を難しくした要因だと思う。故に、先生からの言葉や、先生の行為が深く刺さったのだろう。自分は外側のものの影響を大きく受けていて、どうしようもないこともあると割り切れていれば。または、そのどうしようもなさを外にぶつけられていれば。 

先生

一方で、先生は、カネや愛が人を変えることを体感して、心というものが外に大きく依存していることを知っていたと思う。あるいは、意識的に認識していなくても、無意識のうちには理解していたと思う。だが、彼はあまりにも自分自身に矢印が向きすぎていた。自身で自身を卑怯と評し、またそれに対し煩悶としていたと述べている。卑怯な行動の原因は、決して彼が根から酷い人間であったのではなく、「他者も自分と同じように心を有している」という認識が不足していたのだと思う。自分が裏切られた時の心が、他人にも生じうるという想像力が。  
 酒によって自身を紛らわしたり、死んだように生きることで自分の心を手放したり、最終的には死によって自分の心そのものを消してしまった。自分の心と向き合うことを諦めてしまった。これを真っ向から否定することはできないし、何が正しかったのかもわからない。だが、奥さんとは心を持って向き合ってほしかったような気がする。この結末が、先生なりの最大限の奥さんへの向かい方の形だったのかもしれないが。  

 「私」は先生の遺書に対して何を思うだろうか。先生が述べたように、自分の過去をもつには若い。だが、先生の過去をあばき、そこから学ぶ覚悟のようなものがあった。死までを含めて、真剣に向き合うのだろうと思う。過去に対して、信じる、信じないといった態度の父や先生とは違う。まじめに向かい合って、人間や命、こころを学んでいくのだろう。

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