大和撫子たちの活躍にエールを

4文字元号があったのか?

天平時代をさ迷い歩き、武蔵国分寺・尼寺跡の瓦片を拾い集めている時

この寺跡からは、当時あった武蔵国の郡21のうち、
20の郡の瓦片は出土しているが、
758年に入間郡の東に、高句麗からの難民用に
建てた新羅郡からの瓦が出土していないから、
国分寺・尼寺の完成は758年以前の「757年ほぼほぼ完成した」という意見が
重要な意見(決め手になっている)として教えられる。
そうだろうか、

新羅郡の瓦がまだ見つからずに土中に眠ったままにあるのではなかろうか?
古代史の面白いところです。
新羅郡はその後、にいくら郡となり、最終的に新座に吸収された。
そして天平年間に、
4文字の元号があったと聞いた時、どういうことなのだろうと思っていた。
天平感宝・天平勝宝・天平宝字など
物知りの方が、それは聖武天皇の皇后の光明子が、中国史・則天武后の時代を勉強し、
則天武后が4文字元号を初めて採用したものを、まねたものであろうとおっしゃる。
そうかな
日本の皇后殿も、あの大変な時代に50年前の大国唐や則天武后の時代のことを
よく研究されたものだ。

そうであるならば、武蔵国分寺はじめ、全国68の国分寺建立を詔して、
鎮護国家の道を歩んだ聖武天皇の功績というのも、
実は則天武后を研究された光明皇后が、中国の1省1寺(大雪経寺)を進めた
則天武后にまねた光明皇后のお手柄ではないのか。

教科書風には、741年、聖武天皇は全国に国分寺・尼寺の建立を詔し、
自らも奈良の都に東大寺(総国分寺)と
法華寺(総国分尼寺:こちらは藤原不比等の邸宅を譲り受けた光明子が
自ら法華寺に改装したもの)を建てた」という公式見解も裏読みしなければなるまい。

何を言いたいのか
聖武天皇が、国難(感染症、外圧、国内不安)の中、何をとち狂ったのか、短期間に
都を平城京から木津川沿いの恭仁京、
その後難波宮、紫香楽宮に移り、
最終的にまた平城京に戻るという理解を超えた行いに走るのだが、

光明皇后は、その間 則天武后の中国史を研究し、仏教政策である
1国1国分僧寺・尼寺建立をだんなに助言・実現させたということなのではないか。

大和国は、昔から賢い女性が屋台骨を支えてきた。
若い頃 岡本綾子さんが、米国プロゴルフ社会で苦労しながら
米国やメキシコ系ゴルファーと競い合い、女子ゴルフ会初の賞金王マネークイーンになった時のことを思い出している、
あるいは、五嶋みどりさんが音楽の世界に現れた時、世界が驚き、
世界に通用する日本女性の輝きにしばし魅入られたものだった。
最近の政治では、
高市さんが女性初の総理を目指すとマスコミが持ち上げた時には、
男女関係なく実力のある人がなるべきですト
極めて当たり前のように語っていた日のことを思い出す。

岡本さんの晴れの舞台(日本に帰国されゴルフ関係者が歓迎の宴を開催)
あれから40年、
今朝の新聞でJALのCA出身者が新社長就任の記事が一面に載った
のを見て
ああこの国はまだこんな取り上げ方しか出来ない村社会なのだなと
感じた次第。
男性陣も世界的なプレーヤーが続々誕生、嬉しいことだ。
次の世代の方々には、
男女問わず、
これからの日本、世界をリードするようなご活躍をお願いします。
 

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