僕にとっての写真
背景
最近、写真の撮り方が不健全だ。
どこかで見つけた何かを、ひたすら撮りまくる。忘れたくない、目の前の光景が流れ去ってしまうことが恐い。何かを表現したい訳でもないから、シャッタースピードなどの設定や構図に深い根拠がない。印象が薄いから、レタッチが単調で定形作業と化している。せっかく写真を撮ったのに、後で見てもそのときのことを細かく思い出せない。
夢中でシャッターを切るのは、写真を楽しんでいるとも言える。けど、何も感じずに写真を撮ることに意味があるのか。
以前は写真を撮ることよりも、撮った写真を見ることに楽しみがあったはず。それをよく思い出して、今後のために、自分にとって写真とは何だったかをここで整理しておきたい。
なぜ撮るか
自然が好きなので、自然の中で何かを感じることに幸せを感じる。その時の写真を見て、情景や出来事を思い出すのもまた楽しくて幸せ。
熱帯の多様な植物を見て周ったときの写真。これは本当に良い出会いだったし、良い撮影だった。写真があるからこそ、そのとき驚いたことを事細かに思い出せる。懐かしくて、楽しい。また経験したいと思える。こういう力があるので、写真は素晴らしいと思ったのだった。
その場で強い印象を受け、何かを感じ、その対象を写真で鮮明に記録する(必要に応じて細かい感情を文章で補足する)。つまり、何かを感じてから撮る、「感じるDriven」な撮影がいい。
他にも写真の素晴らしい点がある。生き物には、撮影することで初めて知れる表情がある。写真がもつ、人の目では見逃してしまう一瞬を切り取る力、瞬間を射止める力がすごいと思った。でも、これを意識しすぎると、写真をがむしゃらに撮りかねないから、あまり意識せず、副産物的に得られたらいいなと思っておくことにする。
また、写真を撮るのは自分のためだ。人に見てもらって感動してもらえたらうれしいけど、人の目を意識してしまうと、目的が変わってしまい、撮りたい写真が撮れなくなる。自分のために撮った写真で、人に何かを感じてもらえたらうれしいが、このことも副産物的なこととして認識しておく。
まとめ
主目的
感じたことを写真に留め、いつでも思い出に深く浸れるようにする
副産物
目では追えない瞬間を切り取る
人に見てもらって感動してもらう
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