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波を羅(うすもの)で受けきる者には蜜(得られるもの)が多く訪れる

あ、羅ってーのは鳥を捕る網ね。
網羅って言うじゃん?海のものも空のものも全てを手にいれるっていう意味の言葉です。それの『羅』
波をっつーたら海じゃんって言われるけど、海面より高く上がってるのが波だから、羅でいいじゃん。って偉い人が言ってます。

遠慮とか施しという訳ではなく、まぁそれも含めてだけれども、新年のお祭りなんかじゃいろんな地域のお寺で、今年一番の福を奪い合うみたいなイベントがありますが、アレ、教義としてはどうなんだろうね?
譲り合ってたら祭りが盛り上がらねぇし。
仏教だと、お互い譲り合って幸福を分かち合いましょうなんて教えられるけど、元日零時に全力疾走で一番が福男なんつーイベントやってるお寺が毎年のようにニュースで紹介されてましたが。

「真実はいつもひとつ!」
って毎週叫んでる少年よ
真実は、毎時毎分変わるらしいぜ(笑)
競争なんてものは、いつでもどこでも体験できるもので、学校のテストで競いあって、受験で見知らぬ誰かと競いあって、就活で競いあって、昇進で競いあって、結婚で競い会。。。う?
子供の受験で競いあって、孫の出来の良さで競いあって。
でも、最後は
「あいつより幸せな人生だった」
とはならない。
最後の最後は、自分の物差しで、己の人生に悔いがないか、心残りはアレとアレと。。。
って、人の人生と比べる人はほとんど居ないんじゃないですかね?

競争がダメとかいう話ではないですよ?
切磋琢磨しあって、お互いを高めあえるスポーツの世界なんかじゃ、驚異的な記録を出すユニフォームとか話題になって、各国が真似しても誰も『チョサッケンがー』とか言わないじゃん。
技を競い会うから『競技』なのであって、
「みんなで並んでゴールしましょう」
とかやってたらアホじゃないですか。
競技に見られるのは、「あいつより上に」の気持ちではなくて、「昨日の私よりも上に」の精神でもって、それを実感できるのが競技成績でしょうね。
テレビとかでのインタビュー見てても、
「あの人に負けたのが悔しくて、必死にトレーニングしました。」
的な発言から、リスペクトしているのであって、アイツを貶めてやろうみたいな憎しみは感じられません。

いま己の身に降りかかる試練は、良くも悪くもその後の己の人生の方向性を変化させる可能性があり、その対応次第で人生そのものが変化します。
今この瞬間、これが正しい選択だと思っていても、10年後に後悔している可能性もあるし、逆に煮え湯を飲まされ辛い思い出となったことで奮起して、10年後には、その出来事がよい思い出になってるかも知れません。
先のことなんて解んないんだから、今この瞬間楽しければいいじゃんとなっちゃうかも。
じゃぁどうすれば楽しい?
仲間を集めて嫌いなやつを指差して笑うのが至上の喜びかもしれない。
常識の正反対で成果を修めようとする人も、一匹狼っぽい気分になってるけど、それを誉めてくれる人を想定して一匹狼やってる。一匹じゃないじゃん(笑)

自分が進みたい道って【孤立】じゃないじゃん?
どんな無いようであれ、認めてくれる人を欲してるから、努力して存在をアピる。それは恥ずかしいことではなく、純粋な愛情欲求であり、全ての人間が持っている物であり、人間という生物の普通の反応。

ただし
悔しい思いをしたとき、その切っ掛けになった人、たとえばいじめっことか理不尽な上司とか、その人に対して優しい気持ちで手を差しのべるのは結構むずかしい。できたとしても、俺はあんなやつにでも差しのべられるぜぇ!的な反撃かつ脳内勝利の思考になる。結果、仕返しする頃には嫌いなアイツと同じ感情、行動しちゃう。
嫌いなアイツの行為が100%間違っていると限らない。むしろ自分が思い違いをして、正解にたどり着けなかったのかもしれない。


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