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『質問する理由』って説明できます?

現場スタッフだった時も
管理者だった時も
講師やってる今も
毎年のように同じ質問をいただきます。

「認知症を病気としてみるべきだと思いますか?個性としてみるべきだと思いますか」

先に答えておきましょう。
【どっちっでもいいです】

質問を質問で返すと、その人はその瞬間からご機嫌ナナメになって未来永劫笑顔で仕事しなくなるので、模範解答的な返事はしますよ?

模範解答
【医学的に病気としてみる視点と、文化人類学的に個性として接する福祉的対応が両立できれば最高ですね。

だいたいさぁ
この質問をしてくる人が欲しているのは、【納得のいく模範解答】ではなくて【満足のいく返答】なわけです。目の前に立ちはだかるのは業務上の問題ではなく、むかつく上司もしくは先輩。
介護福祉士の受験勉強をしてるのか、最近どっかで認知症についての勉強会に行ったのか知らんけど、強い口調で上記の質問をしてくる場合、その時に一緒にいた人たちと、気に入らない奴の話題で盛り上がったうえで、「アイツの鼻を明かしてやろう」ってな流れになってることが多いんですよ。
あぁめんどくせぇ。

冷静に考えてみよう。
認知症を病気もしくは個性としてみることを定義づけた瞬間に、問題解決の糸口が見えるのかね?
視点を変えて、目の前の問題が解決するなら、認知症への対応が問題視なんてされないんじゃない?
視点をどこに持っていこうとも、多様性を持つ【人間】への対応で、唯一無二の答えがあるほうがおかしい。そんな答えがあるとしたら、きっとそれはパワハラでの解決であろう。

世の中には、医学的な視点で認知症という病気に立ち向かうことを生業としている人と、認知症を患った人に寄り添い、接することを生業としている人がいるわけです。お互い、立場ってモンがある。
現状、関知しない病気だからと症状改善にむけた治療もしないんじゃ、医療倫理に反して医師免許を失っちゃうし、個性だからと発生したBPSDを温かい目で見るフリしてほったらかしじゃ命の危険まで生まれちゃう。

いま、介護保険でも障がい者総合支援法でも、
【互いに専門的な知識、技能を持って協力し合いなさいよ】
って定義づけられてるのです。

【みんな仲良く】をわざわざ法律で定義付けなければならないなんて、世知辛い世の中ですね。

仕事でもプライベートでも、うまくいかなくてイライラしてる時ほど、何かしらの問題に対する画期的な解決方法を見つけて、それを用いた行動で己の力で問題解決を成し遂げたいと思うことがすごく多いです。が、そういう時に限って、これだ!と思った方法がうまくいかずに余計にイラつくってよくあること。

【うまくいかない】のは、誰かのせいなんじゃなくて、うまくいくような道筋を導き出すための冷静さを欠いているだけです。そんなんじゃ決してうまくいくはずがない。

うまくいかない原因が、自分ひとりの力では解決できないということに気づくこと。さらに、ちょっと周りを見渡せば、たくさんの人が、あなたがSOSを発するのを待っている。手を差し伸べる準備をしていることに気づくこと。素直に「ちょっと知恵と技術を持って助けてくれない?」と相談できることで、身も心も楽になるんじゃないかしら?

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