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あの夏へ〜千と千尋の神隠しから

あの夏へ、あの日の川、いのちの名前、、
この楽器、すご、、

いま、この曲を弾けたらいいなー、と、Youtube動画を見ながら格闘していたら、千と千尋の神隠しを、むしょーに、また、観たくなってきたのです。

映画、ご覧になったことがあるでしょうか。
前の小学校から転校して、引っ越しの車の中で、少しさみしそうなようすの千尋。

私たちは、小学生くらいから、早くも社会で生きていくための準備に追われています。
湯バーバみたいなのに、本当の名前を奪われて、かりそめの役割の名前を与えられたりします。

女の子なんだから、小学生なんだから、社会人なんだから、親なんだから、ちゃんとしなさい、と。
「ここでは、仕事を持たない者は、湯バーバに動物にされてしまう」とハクが教えてくれる。

そしていつの間にか、本当のいのちの名前を思い出すことができなくなります。
私たちは、そのようにいのちの名前を忘れ、かりそめの役割の名前を生き、そして、必ずまたいのちに還って行く道筋を辿ります。

心療内科では、こころが折れてしまった人に出逢います。
でも、こころは、折れていいんです。
かりそめの名前は折れるものなんです。
役割の世界の中で生きているとは、失敗も挫折も喪失も、あるのです。

それよりも、本当の名前を思い出せなくなることの方が問題ではないでしょうか。
元々、役割や仕事をちゃんとできないくらいで、本来のいのちの価値は、揺らぐものではなかったはずなのです。
逆に何かを達成することで、得られるものでもなかったはずなのです。
それを、私たちは忘れてしまっているのです。

本当のこころの強さとは、ちゃんとできる人になることではなく、
湯屋の世界にいる間も、いのちの名前を思い出すことのできる人、
のことなのではないかなぁと、思うのでした。

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