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I'm officially back in Osaka

7月のあたまに、パラオから帰国した。そしてこれを機に、約6年間つづけたフルタイムの仕事をする生活もあらためてみようと思った。いまは大阪の実家に住まいを移し、北浜にあるクラフトビールバーとアメリカ村にある宿泊施設兼レストランバーでアルバイトをしながら両親と暮らしている。

頭を動かすだけでなく、身体も動かしながら仕事がしたいという理由で、都内の出版社を卒業し、海でツアーガイドの仕事ができるパラオに渡った。ネットでツアーガイドの求人を探しているとき、国内外の求人を見つけ、「この際だから海外に行ってみよう」、そんなノリでパラオ行きが決まった。

シーカヤックツアーのガイドの仕事は、ほんとうに気持ちがよかったし、楽しかった。海は、毎日2回ずつ干潮と満潮をむかえる。干潮時は、普段なら通れるルートが使えなくなるので、カヤックが通れるチャネルを見つけなければいけなかった。ガイドの仕事をはじめた頃はチャネルを知らず、お客さんを変なルートに連れて行って、カヤックを引きずらせたことが何度もある。マジでごめんなさい、お客さん。笑 日本から来た若いギャル2人組とツアーに行ったときは、一緒になってはしゃいだ。シンガポールから来たアメリカ人家族のお父さんにバチギレされたこともある。反対に、中国から来たお客さんにバチギレしたこともある。たまに、ツアー中に遭遇するウミガメがめちゃくちゃかわいくて、ウミガメが大好きになった。とにかく、毎日がいろんなネタで溢れていた。

同僚たちの出身国は、パラオ、フィリピン、バングラデシュ、ウクライナ、中国、日本。みんながパラオで働いている理由はさまざまだ。母国にいる家族を養うため、母国の内戦から逃れるため、人に頼まれたためなど、みんなそれぞれの理由がある。

パラオには多くの外国人労働者がいる。総人口の約4分の1がフィリピン人。その次に多いのがバングラデシュ人だ。でもパラオは、外国人労働者をできるだけ受け入れないための、さまざまな法律をつくっている。

・労働許可証に記載している職種以外の仕事はできない
・特別な理由(雇用主が死亡、会社が倒産など)がないかぎり、外国人労働者はパラオ国内で転職ができない
・パラオを出国後5年間は、パラオで再就労することができない

また、パラオの生産人口の半分以上が公務員ということもあってか、汚職が横行している。雇用主と政府の関係が強く、不正が多い。そのため、外国人労働者の立場が極端に弱い。

例にもれず、わたしが働いていた会社も違法・不正だらけだった。わたしはツアーガイドのほかに事務仕事もしていて、その過程で経営陣による違法・不正行為を目の当たりにした。また、ボスから不当な扱いも受けた。経営陣の従業員に対する扱い方にもまったく共感できず、5月末に退職した。ツアーガイドを辞めなければいけないことだけが悲しかったが、実のところ、わたしが持っていた労働許可証では、そもそもツアーガイドができなかったのである。なんじゃそりゃ。

現地で転職も試みたが、先述の法律のとおり、わたしのケースでは転職できないことがわかった。そのあとは、取り返すべきもののために、Labor OfficeやHuman Trafficking Office, Legal Service Office、日本大使館など、あらゆる機関をまわり、奔走した。すべてが手探りで、先が見えず、手持ちのキャッシュだけが減っていく状態はとても不安だったが、とにかく必死だった。結果、未払いの給料と日本行きのチケットをゲットし、日本に帰国した。

退職してから帰国するまで、約1か月かかった。大変だったけど、いま思えば、その間もかなり面白かった。退職してから住むところがなかったので、同僚の友だちのパラオ人が居候させてくれた。毎日、1日中ビールを飲み続けているアル中クレイジー野郎だったけど、パラオ中を連れまわして楽しませてくれる、とてもいい人だった。わたしが帰国する日も空港まで送ってくれた。最後に「ごめんね。パラオのこと、嫌いにならないでね。」と泣きながら見送ってくれた。そこを出てからは、ホテルを経営するフィリピン人に助けられた。なんと、タダで長期間、客室に泊まらせてくれたのだ。それだけでなく、食べるものはあるか、なにか困ったことはないか、といつも気にかけてくれた。一緒に退職したフィリピン人の彼ともクソほど喧嘩した。でも、このお調子者がいなければ、楽しくなかった。

悪魔もいれば、天使もいる。世界には、ほんとうにいろんな人がいるらしい。

いろいろ予想外すぎる展開になったが、そんなこんなで、いま大阪にいる。でも、わたしは地元(羽曳野市)に友だちもいなければ、地元の道さえまともに知らない。言い訳をすれば、小学校をソウルで過ごし、中学高校は箕面まで通い、大学は兵庫県三田市で、卒業後は首都圏で過ごしてきたわたしは、地元とほとんど接点がない。地元といっても、ただ住む家があっただけ。また、両親も姉もわたしも、仕事や学業の都合でそれぞれ住む場所がばらばらな時期が長かった。でも、偶然いまはみんな大阪に集合している。だから、この機会を存分に楽しみたい。

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