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なぜ、ノンデュアリティで悩みが消えるの?1

悩みの種類もいろいろありますが、その個々のことに対処しようとすると、時間が多くかかってきます。
それがもう嫌なので、根本的な治療をしたいと思います。

ノンデュアリティを学ぶと以前あったような悩みが持てなくなります。それはなぜかと言いますと、

理由1 理想だとわかる

起こってもいないような架空の話に貴重なエネルギーをつぎ込んで摩耗しているという事実に気づくので、それとは今後一切きっぱりと縁を切ります。

事実と誰かの心配をごちゃまぜにして自分の話に興味を引き付けたいんだ、と見抜いてしまうので、そこに近づきもしません。

どうでもいいような内容、どうでもいいようなシュミレーションに付き合うほど暇ではない、ということに気が付いているのでシンプルに離れます。

こういうことがためらいなくできるようになります。なぜかと言えば、ノンデュアリティを学ぶことで空想ベースから事実ベースにお引越し完了できたからです。

空想的なあれやこれやは全部「理想」です。実際の現象と一致しません。
それが全く分からないので、様々な空想を思い描くという「お楽しみタイム」があったというのも事実です。しかし現状はおままごとに感じてしまいます。

ノンデュアリティを知れば、そういう事実とは無関連な連想が外れてくるので、とてもありがたく感じるし、また、とても実用的な捉え方だと思う。雨が降って憂鬱だというのは明らかに事実無根のでまかせ(=過去の記憶の関連付け)であるということがわかってしまうから。そんなのを信じるというのは狂気の沙汰でしか無い。

ノンデュアリティの効果効能

空想ゲーム、お話遊び、そういったものに興味が持てなくなったということです。今でも確かに楽しいお話のジャンルはあります。その時には大いに楽しめますが、どうでもいいようなことに対する集中力が持たないという意味です。どうでもいいからですね。

相手の話は相手の理想であり、自分とは無関係なことになります。自分のことをもっとしたいから、無条件の愛の原則に従います。

バシャールはノンデュアリティの話をしません。が、エッセンスは共通なのでたくさん学べます。

理由2 悪く見れなくなる

自分に対して起こってきたことは、単に経験するために起こってきているということなので、特に気になりません。深刻にとらえすぎません。機会の獲得のことですね。

なぜかと言うと、次の機会に役立つようにまだうまくできないことをし始めただけだからです。

初めて自分で立つことができた赤ちゃんに対して、走ったり、踊ったり、空中逆上がりしたりすることを期待するというのはおかしなこと(It's So Funny=うけんだけど!)です。

自分が頑張ってできるというような期待のし過ぎをやめてみます。
また、できなくてもいいです。できないという事実からしか得られないものがあるからです。

「今自分がいる所でしか経験できないものがあるからここにいます。」

また、他の誰かがうまくできないことに対して悪く見れません。なぜなら、自分には直接できないことを、代わりにその姿を見せてもらうことによって、自分の中で気づきの種にしたいので関係を希望するというのを知っているからです。

悩んでいいよ

でもこういうことは、頭でわかっていても、実際の状況の中ではうまく立ち回れません。

実際のところそれも経験です。継承に必要なステップだから悩むな、ということですが、難しいので「悩んでいいよ」です。しっかりと悩みぬきましょう。悩むことを受け持つことでその道を通って目的地にたどり着ければいいのならそれを満足いくまで完遂しましょう。事実、その場合に悩むのをやめることの方が難しいです。悩むことの方がはるかに簡単にできます。

また、悩むことないよ、と誰かに言ってあげてもその方が自由意志によって悩みたいのであれば、悩んでもいいよという態度に自分がなる必要があります。悩みは時に人を飛躍させます。ある場所からある場所にぴよ~んと到達させます。

思っている以上に人は自由にしか生きていません。どんなに悩んでいようとも、です。非常に自由に存在しています。


長くなったので、2ページ目に続きます。


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