見出し画像

幸運が当たり前

今日はちょっと短いです。今瞑想をしていてようやく気が付けましたことを気持ちが熱いうちにシェアしておこうと思います。

タイトルズバリなのですが、『幸運が当たり前』だったことに気が付けました。

不運があると思い込まされていただけです。




最近のいろんな投稿で一貫して宇宙は無限だとか、愛が基礎だとか、みんなで一つだよとか書かせていただいていたのですが、それはぼくの中で当たり前体操だったからそういう発想で書けていましたよ。

無限だとか愛だとかワンネスは完全に腑に落ち着いていて受け取れていましたのでそれが自分のデフォルトスタイルでした。

しかし、『運』に関しては認めていられていませんでした。運は良かったり悪かったりが合って自分では決められないものだとしていましたが、全然違って、今はちゃんと受け取れています。無限が当たり前な事のように幸運もまた当たり前です。

自分は(ぼくという存在は)普通に大幸運で、だから存在していますし、だからこうしてメッセージみたいなのも書けていますよね。当たり前に感謝なんですが、それはもう幸運そのもので、だからどうしたという話でもないのです。普通に幸運。幸運がデフォ。です。

それ(幸運かどうか)は設定だとかそういうつまらない話なんじゃないと思います。無限がデフォで無条件の愛が根幹だというレベルの話が今ここでしていることなのでした。幸運はデフォルトスタイルなので変更不可の絶対条件です。幸運が当たり前なのでしたね。当たり前すぎて忘れようとしてそれに大成功するぐらいには大幸運です。(半分冗談です笑)

そう!何を言いたいのかと言うと、幸運は当たり前すぎる当たり前なので、それは宇宙が無限だというレベルで当たり前すぎていますので、何も心配することもないのに心配したいから出来ています。だから大丈夫なんです。




認めればいいだけでしたね。自分が絶対的な幸運保持者(幸運ホルダー)であるという事を。
だからみんなぼく(これを読んでいるあなた)に会いたくて会いに来てくれたんだよね。だから一目見よう、幸運にあずかろうとして来てくれたんだね。現世での自分が幸運の保持者であるという事を思い出させてくれている媒体で在れるから、そのような役回りが可能となります。そうですよね??

ただそれだけのことなのでした笑

大幸運がいつも前提にあります。変更不可の大前提でした。それが自分です。それはあなたもです。認めればそう感じられると思いますよね。ワンネスなので。自分がその役回りをするかどうか、したいかどうかだけがあると思っています。

つまり、ワンネスと言うつながりの中で、どういう役回りを選択するか、できるかどうかだけがあり、自分が挙手してもろ手を挙げて『大幸運』保持者ムーブをしたいならそうすればいいだけです。これはその他、『感謝』とか『自由』だとか『愛』だとか様々なテーマになりえるものがありますが、 その中から好きなものを選べばいいよ、と言う事で、ぼくは個人的に好きなのが『宇宙、意識、愛、無限、自由意志…』とかがあり、今からそこに『幸運』が入ったよ!と言うお話です。今から『幸運』はぼくのデフォルトムーブです。

不運とはおさらばして、(何度も書きますが)認めればいいだけでしたよね。

幸運は当たり前運動です。行き当たりばったりのその場限りのすったもんだで幸運なのか不運なのかが決まるようなものではなくて、それ以前に大前提として幸運パラメータがMAX振り切りなのが当たり前で大前提です。だから、そのおかげで不運とかを経験できています。それぐらい簡単な話ですよね。



ここからさらに発展して、『豊かさ』も自分が認めればいいだけでしたよね。

世界の中で個人的に所有している範囲だけに限定して豊かさがどうこう言うのをやめにして、自分が持っていないものでも在ればいいのであることから全部が全部豊かさの表れでしかないと感じています。澄み切った早朝の野鳥の鳴き声とか。

幸運とか豊かさとか、その他もまだあると思いますが、その1個1個を単に認めればいいだけのことで、そうすればそれが自分の中で見つけられるから幸運であったり豊かであれたよというお話です。

『貧相』もまた幸運の要素であり、豊かさの一つであれたという事があります。それ(貧相)自体が豊かかどうかではなくて、そういうことが生まれていること自体が豊かさの象徴であって、経験の幅のことがここでは言いたいことです。どうしてそんな体験が許されたのでしょうか?圧倒的豊かさに感じられてしまいます。自分が圧倒的な幸運保持者です。どのような経験もまた流れて変化していくからですね。今それが実現するという事自体が稀有で珍しくて愛おしくてそこからまた何か生まれそうだという事です。

ぼくはそういう着眼点を持っています。

エゴセルフ(個我)と本願であるセルフ(真我)の着眼点が異なります。
最も広い意味での豊かさの中には様々なバリエーションがあり、
最も広い意味での幸運にはバリエーションがあります。
(最も広い意味での)そこには不幸も不運も貧困もありますが、それはエゴセルフの着眼点においてであって、より大きなレイヤーでいう着眼点(セルフの着眼点)ではなんでもかんでも在れば在っただけ豊かで幸せで幸運だとなります。見えている範囲が広くて実感が伴っていれば実際その通りでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?