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ノンデュアリティの効果効能

ノンデュアリティを知ると捉え方が180°変わる。

しかし、現象には意味がないという意味を、生きる意味がなくなると捉えるのは大間違い。絶対的な意味付けというのはなくて、相対的な意味付けがちゃんとあるという意味。

または、もう不要な意味付けをやめて良い、つまり好きな意味付けに更新して全然構わないよという感じ。または、一般常識が空想をベースにしているのに気がつくことで、それを利用するのをやめ、事実ベースの価値観にMNP※1 してもいいんだよ、ということ。
※1 ナンバーポータビリティーの略。スマホの番号はそのままで他のプランに乗り換えること。ここでは冗談を踏まえた例えとして、番号というユニークなアイデンティティは引き継いで他社に乗り換えることを指している。


現象にはある特定の決まりきった意味が元々無いというだけのこと。

まだ何の意味付けもされていない新規で素の現象が、今という切れ目のないこの間(ま)に現れてきている。

まだ何も意味付けされていない、素の現象を捉えても素の意味しかしない。言い換えると、何の意味もない。まっさら白紙。

例えば、雨が降っていたとすると、事実は雨が降っているだけだから好きな傘を持って出かけよう、ということになる。がしかし、空想ベースだと、雨=かなしいだとか、憂鬱だとか、ネガティブな印象を特別に演出し、雨だから最悪とか言いテンションが下がるという感じ。思い込みや空想により、パブロフの犬のように反応が現れ、仕組み上それに一喜一憂せざるを得なくなる。

ノンデュアリティを知れば、そういう事実とは無関連な連想が外れてくるので、とてもありがたく感じるし、また、とても実用的な捉え方だと思う。雨が降って憂鬱だというのは明らかに事実無根のでまかせ(=過去の記憶の関連付け)であるということがわかってしまうから。そんなのを信じるというのは狂気の沙汰でしか無い。

ユニークな思い込みを信じ込んでいる場合などには、お笑いとか冗談に思えて面白いということも結構多い。しかし、嘘やでまかせが多めな空想ベースの設定を信じることができなくなることで、ドラマや映画を見続けるのが難しいと感じることも普通にある。

または、ありがちな思い込みの一つに、ノンデュアリティ=人生が楽になる=人生が楽しくなる。ということがあるがそうとも言えないでもない。結果そうなるかもしれないが、ならないかもしれない。ケースバイケース。個が元々持っていた思い込みの種類による。

自制していた思い込みが外されて限定解除すれば、それはそれなりに楽しいと感じるのはそのとおり。カチコチだったMyルールを緩めることで、頑なだった食べちゃいけないルールとかも別に思い込みだから好きにして良いんだ、みたいなこと。太っても別にいいんだと言う感じ。

エゴ主体のこうあってほしいという思いも別にスルーしても構わないよということ。~しなくちゃいけない、~してはいけないという嘘八百、口からでまかせの信仰をキャンセル/ドタキャンすればいいし、そんなものを信仰している宗教団体に入信する必要も意味もまったくないということがはっきりとしてきたという感じ。話半分みたいなそういった種類の楽ちんさを感じるようになる。

逆に、自分が練り上げた個性的な世界観が楽しくて大好きな場合には、ノンデュアリティはがっかりする。ぼくは始めは相当がっかりした。が、ちゃんと学べばそれも思い込んでいただけだから、ノンデュアリティを学んで大正解だという感じに変わったけど。正直はじめはルールクラッシュにいらいらもした。
結果を感じるにはその前にやることがある。それは事実空想を入れ替えること。チョイス。

事実は、「ある決まりきった限定された意味付けというのがそもそも存在しない」ということで、それプラス「遊び心(イマジネーション)」というユニークな空想で自分好みの味を現れてくる現象にその都度自由につけて楽しめることが最強という感じ。

意味付けのない白紙のキャンバスに自由な絵を書いたらいいよという事。教えられた余計な概念を持つ以前の純粋な子供ごころを、大人になって様々な概念を理解できながらもそれを分解/破棄=再選択して必要に応じて楽しめるよということ。

ノンデュアリティ=個性の喪失、個人的な全ての放棄だと意味づけする場合もある(昔のぼく)かもしれないが、それはある意味、片極に全ぶりしすぎた一例=反面教師だと思う。暗に否定があると思うから虚無になる。それは混乱を生む。
(個を喪失すると、全体がある。というふうに言う場合は別。そちらにしても、個を喪失する時点で今の地球的ではなくなるので地球的なあれやこれやのイベントに参加しなくなると思うが、本当にそうしたいのか?は吟味が必要。)

ノンデュアリティを知った後も、空想(イマジネーション)を主体に生きても構わないわけで、予め決められた決まりきったルールはないと思う。

単にそうすることが今の自分に嘘や違和感が無いから事実を主体に生きていきたいと言うだけであって、事実を主体に生きていくと、それまであったような空想を主体に生きていたときにあるような悩みとおさらばできたよ。というお話。(全ての悩みがという意味ではない。ある程度お別れしたという意味。)

しかし、事実を主体に生きる場合にも悩み自体は普通にあると感じている。特に思うのは、空想主体で生きていきたいとする層とコミュニケーションにずれが常にあって困るというのと、社会自体が空想ベースになっているところから、どうでもいいようなものが溢れかえっていて混乱しやすいという感じ。べつに全ての悩みが消えてハッピーだけになるということもない。お金の問題も普通にあるし、支払いもする。人間関係の悩みはもしかしたらさらに複雑にもなるかもしれない。単に深刻に捉えるということがなくなると言うだけで。個人差がある。

事実を主体に生きるとドライになるということでもなく、空想を主体に生きるとウェットになるということもなく、生き方捉え方は引き続き自由だという感じ。
悩みがあるときには悩みがあることのほうがシステムとしては完璧であるという捉え方。




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