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7 良い人をやめる

引きこもりへの抵抗感を無事クリアした私でしたが、夫子供両親と暮らす主婦が引きこもることは、家族にもかなりの変化が伴います。初七日くらいまでは私が何もしなくても家族は何も言いませんでしたが、私がそのまま引きこもり生活をすると、家族にとってどんな影響が出て、どんな反応をするかということが、今度は気になり始めました。

そうは言っても体は思うように動きません。料理は好きなので、初七日を過ぎて数日した頃、夕飯だけは作ろうと台所に立ったと思います。それまで家族は一体何を食べていたのだろうと今更思いますが、記憶がなく思い出せません。そんな意識が正常でない状態にもかかわらず、明らかに家族への影響を心配している私がいました。

それは、正確には、家族への影響があった時に、私はどう評価されるかという自分の心配です。私は良い母・良い妻・良い嫁・良い子・良い友人・良い人であろうと頑張って生きてる人間でしたから、その良いというラベルにふさわしい行動が取れなくなった時の自分が家族にとってどんな存在となるのかの心配をしていたのです。

でも体は動きませんし、自分の外側で起こっていることを考えようにも、思考力が落ちていて疲れるだけ。私は良い人であることを諦め、ダメ人間でもいいから、とりあえず生きようと思いました。

はじめは怖かった。特に親の反応が怖かった。小さい頃に怒られてた自分と同じ、のんびりで、一人でおうち遊びばかりの、おとなしかった私になってしまうのですから。がっかりするのではないかと思いました。親が喜ぶ自慢の娘じゃなくなった自分を見て、彼らは何を思うのだろう。でも親の期待に応えてるパワーはもうありません。子供のために生きることだけに集中したかったのですから。

私は恐る恐る、自分にくっつけていた「良い人の仮面」を外しました。親の自慢の子、身綺麗にして料理上手な妻、育児書や心理学のマニュアルに沿って笑顔の会話とスキンシップを欠かさない母親、年に数回実家に顔を出し孫を義父母に懐かせるよう努力する嫁・・・考え付く限りの努力をして手に入れた自分でした。

でも結局それは本当の自分ではありません。息をするだけになったら剥がれ落ちてしまうものでした。自分がやりたくてやっていたわけではなく、「やったほうがいい」という情報を参考にやってきたことです。自分自身に必要かと言われれば、必要ないものであり、私はそんな必要ないものでいっぱいいっぱいになって、自分に必要なものを見失い、俗に言う他人軸というものに翻弄されていたのです。

もちろんその仮面や鎧で人を少しは幸せにできていたと思います。情報を参考にしているのですから、全く効果がないわけがありません。私自身もいろいろなスキルを身につけ、今もそのスキルを利用しているので、無駄だったとは思いません。ただスキルはスキル。自分を豊かにしたかと言えば、豊かにするための道具を手に入れたとしか言えません。(今こうして文章を書いていることを考えると豊かさを生み出せるようになっているので、やっぱり無駄ではないですけれどね。)

そしてついにその仮面や鎧を取り去り、私は人を幸せにできるものなど何ももっていない無力な自分になって、絶望の底で、息をするだけの生き物として生き始めました。「良い」鎧を脱いだ体は身軽で楽でした。

するとどうでしょう!驚いたことに、心配していたことは何も起こらず、誰も何も困らないではないですか。むしろ何やら皆イキイキとしています。私が無理して良い人になることで、実はみんなにも無理をさせていたのかもしれないという驚愕の事実に気づきました。

そもそも、私が選んで生まれたはずの親、私が選んだ夫、私を選んで生まれて来た子供達で構成されてる家族なのに、私が私でなくなっていたら、歯車が狂うのは当然のことなのかもしれません。テレビで見るような理想の家族を演じても、それで無理をして自分を見失っているのでは本末転倒だったのです。

良い人を演じる私を除いた世の中は、スムーズに回っていました。拍子抜けすると同時に、溜め込んでいた謎の重圧から解放され、頑張らなくていいことを現実から理解した私は心底ほっとしました。

人は生きてるだけでいいんだ!

娘が死んだ時、生きててくれればそれでいいと思いました。それは私にも言える事でした。

ふと我に返って見渡せば、娘たちは、勝手に朝食を自分で食べ、夫は洗濯物をたたみ掃除をして、母は洗い物や片付けをし、父も買い物や宅配の受け取りなどをしていて、家庭内は円滑に家事が進められていました。さらに夫に至っては休日の食事の用意もしてくれて、ベッドで泣き続ける私を慰めてくれるなど、持ち前の優しさを全力で発揮してくれていました。

私が良い娘、良い母、良い妻をやらなかったとしても、何の問題もなく、むしろやめたことで、それぞれが活躍して頼り甲斐のある人へと変貌していたのです。もともとそうだったのに、私が受け取っていなかったのでしょう。もっと言えば、私が良い人を演じるのを大きな器で黙って許して手出しをしないでいてくれたのかもしれません。またまた大反省しました。

それからというもの、私は自分のことだけを考えることにしました。家族を心配するということは、家族を信頼していないからと気づいたからです。そして家族のためにも、私は私のことだけに集中し、家族が私を求めた時だけ、家族に私を差し出せばいいのだということにしました。

良い人であることを否定はしません。それは人に対する愛でもあるからです。私は無理してはいましたが、良い人になりたかったのは、自分の承認欲求を満たすためでもありますが、相手を愛していたからに他なりません。でも自分を犠牲にして無理をして良い人になろうとすることは、誰にも求められていないということを知らなければいけませんでした。

引きこもり開始とともに、私の生活はとても楽になりました。それは今でもほぼ同じです。私が忙しい時は、私のやりたいことで忙しいだけです。誰かのために進んで何かをしてあげることは無くなりました。そして、たとえ頼まれても自分が嫌なことは断るようになりました。

そのきっかけになった話を次にお話ししますね。


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