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1 自ら命を絶った娘が導く、愛と感謝の世界

2018年5月、三姉妹の長女だった娘が命を絶ちました。最高の家族だね!学校楽しい!と幸せそうで、優秀で優しくて頼もしくて、前世記憶があったり、 UFOを目撃したり、母である私にたくさんの初めての経験をさせてくれた娘でした。

3年が経った今、私は、死も絶望も、人を不幸にするものではなく、むしろ幸せへと導いてくれる「愛」だという考えに至っています。娘の死に絶望したが故に、愛を知るに至った私の三年間を振り返り、ここにまとめていきます。愛する人の死に絶望しているすべての人にギフトとなると信じて。


はじまりは絶望

娘はなぜ死んでしまったのか。思い当たるのは前日のテストの失敗。高校に入って初めてのテストの日、帰ってくるなり「準備した英語の種類間違ってた。あーもう人生リセットできたらいいのに。あーもうダメだ。」と凹んでいました。

はじめは、「失敗しても次があるよ」「まあ、次は頑張ればいいじゃない」と言っていた私も、なかなか気持ちを切り替えない娘に対して、ついに、「もう、しつこいな〜勝手にして!」と言ってしまいました。夜のパートに出かける時間が迫っていた私は、少しイライラしていたと思います。

翌日朝、「大丈夫だよ。なんとかなるさ。」そう言った私に、「うーん」と少しテンションの低い返事をした後、笑顔で学校に出発し、そして、私が言ったように、「勝手にして」しまった。

あの言葉がなかったら娘は死んでいなかったかもしれません。パートより娘を優先してあげればよかったと後悔しても、もう遅い。私は自分を責めました。でも、少し腑に落ちない自分もいました。あんなことで人は死んでしまうものなのか?

娘を失った私は、何もできず、ただ泣くばかりでしたが、自分の内側では「なぜ死んでしまったのだろう」が渦巻いていました。母である私の雑な対応がいけなかったのか、失敗の少ない人生にしてしまったのがよくなかったのか、いずれにせよ、私が死なせてしまった前提で、正解を探そうとしました。

それに、私のせいで娘が死んだのならば、娘はその死んだ理由を私に知って欲しいだろうし、私は知らなければ自分の行動を反省もできない。私は懺悔したかったし、彼女の妹達には同じようなことが起こらないように学ばなければならないと思いました。


でもそんなある日、いつものように泣いて仏壇に「なんで死んじゃうんだよー」と話しかける私の中に、娘の声が響いたのです。びっくりしました。発せられた言葉はもっと衝撃的でびっくりする内容でした(詳細は次項で)。私はその言葉で、絶望の世界から、ヒョイっと抜け出しました。あれ?なんだここは?

私は絶望の世界を少し遠いところから眺める場所にいました。娘の一言は新しい視点を私に授けてくれたのです。そして絶望が手の内にあるというか、どうにもならないものから、変えていけるものへと変わったのです。

その日から、新しい視点と娘の助言とともに、絶望そのものだった自分の世界を、心地よい天国へと変えていく作業が始まりました。

そして三年後の今、私は絶望どころか、愛と感謝を感じるばかりの毎日を送っています。娘の死は、私を幸せにするためにあったのではないかとすら思っています。いや、そう確信しています。なぜなら、私だけでなく、娘の周りのすべてが娘の死によってより成長させられているからです。

死は悲しく寂しいことです。でも残された人は、そこから二つの道を選ぶことができます。死の影響で不幸になるか、死の経験から幸せになるか。その死の意味は、残された人が決められるのです。大切な人の死を「人を幸せにする尊い死」にしたいと思われたら、私の娘が教えてくれたこと、気づいたことをこれからnoteに書いていきますので、ぜひ活用してください。

今私は、娘が死んだ理由がわかります。娘が死んだのは、私を幸せにするためだけでなく、読んでくださる方すべてを幸せにするためです。そして、あなたの大切な人が死んだ理由も、あなたを幸せにするためであり、あなたが幸せだからこそ与えられる愛を受け取る人のためです。

死とは残された人への愛の教え。絶望は天国への近道です。

必要な方に届きますように。

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