『赤ちゃんと僕』、それから私|「それ」にもなれなかった子ども達へ#2
『赤ちゃんと僕』という漫画が大好きでだいきらいだった。
『花とゆめ』に連載されていたこの作品は、主人公の榎木拓也と弟の実くんを中心に物語が進んでいく。
小学5年生のころに交通事故で母を亡くした拓也は、家事や実くんのお世話を献身的に行っていて、周囲の人も拓也のことは「できた子どもだ」と評価している。
2人のパパは34歳の会社員(名前は春美さん)で、息子たちのことをとても大切にしているけれど、いかんせんフルタイムの仕事に従事しており、また課長職ということで「できる限り」家事育児に奔走するも拓也のサポートなくして家は回らない状況。
ただ作品に流れる時間は「丁寧に」紡がれていて、各描写も筆者がとても細やかに人物の気持ちの機微を描いているので「ただただ良い子の物語」で終わっているわけではなく…。
という前提のもとでいうと、私は絵も、作品自体も、基本的にはとっても大好き。
でも、親を亡くしたわけではないけれど、この作品を読んでいたころの自分は、「やらざるを得ない家事育児」のただ中にいたので、拓也がどこまでも人として「できた人」であるのが苦しかった。
作品の中には、「僕もサッカーしたかったな」と言って、放課後、拓也が校庭で遊ぶ同級生をうらやましく思いながら帰宅する描写もあった。
実くんのわがままに「どうして僕が」と憤る描写も確かにあった。
でも、彼は(努力の人であるけれど)勉強もできるしスポーツもできる人で、思いやりがあり思慮深くもあるので、友だちにはずいぶん慕われる人。
これは、親の有無にかかわらず、彼の性格や本来持っている人格なのかもしれないけれど……。
私の中では「本当に?」が渦巻いていた。
帰宅後にランドセルを置いてすぐに、弟の保育園のお迎えなんて考えることもなく遊びに行ける時間。
下校中に今日の夕飯のことじゃなく夢中になっているゲームの攻略を考える時間。
好きな人のことを考えてドキドキする時間。
何をするでもなく遠回りできる時間。
こうした時間を「家のこと」によって排除されるのは、本当にいいことなの?
私にはこの疑問がずっとぬぐえなかった。
拓也がいい人であればあるほど、「どうして私ばかりが家事を負担しているのか」と思う自分の心が浅ましく思えて、つらかった。
家のことを気にせず「今日、帰ったら公園で」と言える同級生を、最初はうらやましく思っていたけれど、次第に羨望はなくなった。
部活に入らず家を優先する日々を恨むこともなくなった。
「だって仕方ない」「やらざるを得ない」「人は人」
こう思えば楽だったから。うらやむくらいなら、やらなければいけないことを完璧にできるようになろうとした。
洗濯も料理も、お店番も、今から思えば小学生とは思えないレベルでやってのけた。
でも、今になって思う。「子ども時代を満喫することは、もう2度とできない」のだと。
当時の自分ががんばったおかげで、1人暮らしを始めても何一つ困ることはなかったけれど、漫画に出てくるような学生時代を、私は知らない。
『赤ちゃんと僕』は拓也が中学入学となる時点で最終回を迎えた。
拓也が成長すると同時に、実くんも成長し、1人でできることがどんどん増えていくから、拓也の負担はその後、少しずつ減っていったかもしれない。
ただきっと、彼は誰かを傷つけるくらいなら自分が我慢しよう…としそうだったので、せめてパパが一時は困り果てるほどに反抗期を迎えてくれていたら、と親になった私は思う。
親を思うと反抗すらできなかった自分の代わりに、せめてファンタジーくらい、あの状況で親を責め抜いても受け入れられる家庭を、今は見たいと思ってしまう。
たくさんの拓也くん、今、あなたは幸せですか。
私はまあ、ひとまずは今日を生きています。