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AIと自我

悲しいから泣くのでは無い。
泣くから悲しいのだ。

自分の身体でさえ、流れていく映像の一部であり、心はそれに反応していく。
そこに自由な意志はない。
自分の感情が自分から湧き出ていると思うのは幻想である。
この世界に巻き込まれれば巻き込まれるほど、人はこの世界の物語の奴隷になっていく。

誰かを好きになる事も然り。
物語通りに出会い、別れる。
恋に落ちたという感覚も、嫌気がさす思いも、嫉妬も高揚も、すべてこの物語を私たちが自然に受け入れられるよう、あたかも自分で発見したかのように感じさせられている。
実はただの後付けで、それを事実と勘違いする。

人の想いや意識はその程度のものだ。
純粋な恋愛は、残念ながら存在しない。

もともと愛とは全一の感覚であり、
ある特定なものに向けられた限定される愛情などカスのようなものだ。
親子愛も親子という条件のついた限定物である。

これが真理から見た物質を持つ自我の世界の正体である。
この世に意味を持たせたいと思っている者にとっては、何とも腹立たしい内容だろう。到底受け入れる事はできない。というかこの文章を信用しない。理解しない。目に止まらない。
そもそもこんなこと簡単に納得しちゃダメだろう。

ただ、真理を見たい者にとっては安堵できる事実である。

「これが幻想だということを喜びなさい。」

決して小さな視野ではなく、広く物事を見ている感覚がある。
卑屈にもならないし、投げやりにもならない。
正直、もうそれが真理だと思わないと、この世界にいられない。


この世界で肉体の存在だと思っている私たちの状態が、AIと何が違うのか。
自由な意思もなく、物語に流されているだけの存在の私たちとAIと、一体何が違うのか。

私たちはこの物語の世界に私たちに酷似した物(AI)を作っている夢を見ている。AIの機能が人間を超えていくように見えても、大した問題ではない。
それはもともと幻想の私たちなのだから。


本来わたしたちは神の延長の存在であり、
この物質の世界を想念で作り上げてしまう能力がある。
これらは肉体や脳の機能でできることではない。
本来のわたしたちの能力はAIとは比べ物にならない。
比べるられる次元ではない。

神に与えられた装置で、私たちは私たちのレベルの世界を広げている。
この物質の世界は神が作ったものではなく、私たちの無意識の想念である。
だからこんなに混沌とした制限のある世界なのだ。
なぜなら神の愛とは無関係なところで作り上げているから。

貴方の笑顔は、誰かから奪って来た幸福である。
こんな愛のない世界を神が創造していると考えるのはそれこそ神への冒涜である。

そして今日もこの世界に巻き込まれてAIのように反応する。

悲しいから泣くのでは無い。
泣くからその状況を解釈して悲しいと思うのだ。







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