リア充は「世界から存在を受容される」ことで初めてなれるもの(備忘録)

デジタルデトックスの動画を見ていたんですが、力武さんの私生活がまじリア充。

で、気づいたんだけれども、

リア充だからリアルが充実してる

んじゃないんだ。



リアルを自分で充実させてるから、リア充の見た目と雰囲気になった

んだなと。



リア充とはなんぞやな

リア充になりてえと以前よく思っていた。
そんな自分が最近段々リア充っぽい雰囲気を纏うようになってきたなと感じる。

そこで改めてリア充とはなんだろなと考えてみたんだけれども、リア充は

  • 他人と上手くやる能力が高いこと

  • リアルを楽しんでいること

  • 世界に「自分の存在を受け入れられている」と信じて疑わないこと

が特徴として強いなと思っている。


存在を受容されるから、楽しく生きられる


岡田斗司夫さんが、
「僕はリア充って、

自分は世界に受け入れられていて、世界は自分のためのサービスやもので溢れてる

と信じて疑わない人、のことだと思ってるんですよ」

みたいな内容を仰っていた動画を見たことがあって。(細かいニュアンスは違うと思う、許して)


私はいままでずーっと家族や、他人、世界から受け入れられない、存在や人格、やることなす事を否定されるという人生を送ってきた。
ところが、だ。


長い間ずっとずっともがき続けてきたところ、最近になって自分がリア充側になってきていることに気づいた。

相変わらず希死念慮はあるし、内向的な性格だけど、
他者に受け入れられる」という経験が増えてきた。

心無い言葉をぶつける人間を周囲に置かなくなり、いまは
自分のありのままを許して一緒に成長してくれる恋人や、あたたかく支えて見守ってくれる友人訪問看護さん
という、私を大切にしてくれる人々の存在に囲まれている。

彼らのあたたさで、ああ自分は存在していてもいいんだ。と思えるようになった。



すると面白いことに、精神が勝手に成熟してきた。
勝手に自分のやりたいことを外へ出かけて行ってバーンと手を出す、ということを出来るようになった。

ああ、
世界に受け入れられたことで成熟し、自分の人生を歩めるようになった」んだなと。


否定を沢山浴びせると「縮こまったモンスター」に成長する(攻撃してくる)

「2種類のパンに、毎日
『褒め言葉』『貶し言葉』
をそれぞれ浴びせ続けるとどうなるか」

という実験動画を見たことがある。

結果は、褒め言葉を浴びせ続けたパンはなかなかカビず、貶し言葉を浴びせ続けたパンはあっという間にカビが生えた。

人間も同じだ。
褒められ、存在を受容されたことで輝き、魅力が溢れ愛を受けられるようになり、世界を生き生きと生きていける
貶され存在を否定されれば、「自分は世界にとって必要でない、愛されていない」と思い込み、痛みに怯えて心は縮こまり、成長が阻害される


自分がキモオタ女子だった頃は、

  • 他人のことを考えて行動できない

  • 身だしなみが整えられない

  • 他人を不快にする言動

  • 精神的に幼稚(怒りや欲求のコントロールが下手)

という特徴があった。
ところが、これらが全てクリア出来るようになった頃、あれ、自分ってリア充だな…と思い始めるようになったのである!


そこに➕して、最近リア充には特に大きな特徴があるなとわかった。

  • 外見(身だしなみ)が全体的に整っていること

  • 能動的に、物事を自分で選択して生きていること

だ。



リア充は自己の客観視が出来ている

リア充は自分のことをよくわかっている。
他人と関わる中で自他の違いを理解して、自分の好きや関心ごとに気づき、自分のしたいことをうんと手を伸ばして生きている。

学校のカーストの上位にいるギャルなどは、みんなお洒落で身だしなみが出来る。
人と上手く関わることが出来、自分の好きなこと、やりたいことをわかっている。


逆に、もとの容姿だけ良くても他人に不快感を与えたり、客観性が欠けている場合はリア充の雰囲気にはならない。

キモオタ(過去の自分)がキモいのは、
客観性が欠けている(他人との関わりで自分を知る、という行程を経ていない)
痛みを避ける生き方強いられている
ことが決定打にあると思う。

客観性が無いので他人に不快感を与えてしまうし、常に他者の目線に怯えながら生きているので能動的に伸び伸びした振る舞いにはならない。



社会、他者と関わる中で自他の差異を自覚し客観性は育まれる。客観性が無いと己の振る舞いを正せない。
そして存在を受容されないと、自己で選択した生き生きとした生き方をするのは困難だ。



不良がキモオタにはならないのは、客観性はあり、行動が外を向いているからかもしれない。
現実を生きているのか、目を背けて空想に逃げ、自身の課題や欠点を棚に上げているかの違いだろうか?


リア充は脳が発達している

そして、これには脳の能力発達が大きく関わっている。
社会や人と関わることで脳が発達し、人間は成熟していく

社会生活を営むことは、さまざまな能力が必要だ。
日々その中で生きることで、(基本的には)勝手に全方位の能力は使われ、鍛えられ、発達していく。


馬鹿にされたり他者を不快にして嫌われる場合は、だいたい「能力が未発達」であるか、「周囲や一般的なものとは違う類の個性を持ち悪目立ちしてしまっている」場合であって、その人が悪いとも限らない。


馬鹿にされることでさらに脳はストレスで萎縮し、セルフイメージは「自分は馬鹿にされる人間」という強固なイメージに塗り替えられ、さらに馬鹿にされるような自分に寄っていく。

強固なイメージは現実を作る
そういえばリア充の親友は、こんなことよく言ってたなあー。

(親友は私の本質をみて関わってくれる、地頭の良い奴だった。
いまはファッション系で起業して頑張っているらしい。)


さて、纏めてみよう。

リア充になるには、

  • 存在を受容されること

  • 他者と関わり、「自他の相違」から自分を知ること

  • 他者を不快にする言動をしないこと(他者と上手くやれる

…が必要不可欠、という感じかな。


「他者を不快にしない」は、
=「他者を大切にできる
=「他者を幸せな気持ちにできる
という事でもある。

人は他者から貰ったことを、他人に渡すことが出来る。
受容されるから受容できるし、攻撃されれば、攻撃することでしか他人と関われない。
それしか関わり方を知らないから。

社会の中で他人と上手くやれれば、楽しく生き生きした日々を生きられる。
自分1人の視点だけで人生という山を登るのは、あまりに視点と知識量、拾える物事が心許ない。

他人の視点を関わることで貰っていこうな!


おわり。
備忘録(メモ)なので、それは違うだろという点は心の中で修正しといてくださいネ。

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