「学問」という圧倒的な存在

 京都に引っ越して、目まぐるしく僕を取り巻く環境が変わり、さまざまな人と出会い対話し、激動の二ヶ月弱だった。結構頑張って生きたんじゃないかと思うし、こっからエンジンをかけていくぞ〜〜 という気持ちでいる。いろいろなことを悩んで、考えて、という最近を少しずつアウトプットして行けたら良いなと思い、またちょっとずつnoteを書いていこうかと思う。


最近、「学問」という大きな主語で何かを語る機会が非常に増えた。学問に関わる事業に関わっていたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、さて学問とは何かと聞かれると、非常に難しい。

どんな概念にも切り口が学問的であれば学問になりうるとは思うが、それはトートロジーであり答えにはならない。
そして任意の概念は学問的な側面がある、ということならなおのこと定義するのは難しい。
実際、学問バーで数十回のイベントを見てきただけでも、学問に対しての向き合い方は人によってあまりにも違う。

先に言っておくが、これから「学問」という大きな主語で議論をすることを許して欲しいことと、どんな学問へのどんな向き合い方についても否定する意図は無いことのみ明記しておく。

さて、日本では何故かあまり浸透してない概念だが、研究というものはおおまかに基礎研究と応用研究なるものがある。非常に大雑把にいうと、基礎研究は純粋に学問を深めたり、幅を広げるためのもので、応用研究は実利を見据えて研究することである。

この定義から分かる通り、応用研究のために基礎研究があるわけではない
実利のためだけに学問はあるわけでもない。この感覚を持つ人が、意外にもあまり多くない。

自分はそもそも趣味が多く興味もかなりいろんな方向に向けて飛んでいるので、何かを学ぶということに対してかなり広く浅くなタイプだと思っている反面、ただ浅く広げてはいないとも思っている。それは学生時代にちゃんと数学をやっていたことからきていると思っていて、そのいわば数学脳の地盤が (一応付け加えておくが、僕より数学ができる/より強い熱量で研究している人などごまんといて、そういう能力の話ではなく、数学を愛する気持ちとか向き合う姿勢とか、数学というものに対する信仰心の話) 以降出会ったさまざまなものを体系的に紐づけてくれているように思うし、まだ見ぬ分野や知見へのリスペクトや畏怖も持たせてくれていると思う。

これが無く社会に出ていたら、お金稼ぎや実利の部分ばかりを見て「その学問とか研究ってなんの役に立つんすかぁ?」みたいなことを思ってしまっていたと思う。いや、実利を追うことは決して間違いでも悪でもないし、必要に応じて考えるべき部分なのだが、学問の尊さとか価値はそれ一辺倒では絶対にない。繰り返すが、応用研究のために基礎研究があるわけではない

それがないと、ただgoogleで調べた知識で満足してしまう。知識が点で存在するだけで体系が生成されていかない。それではただの"豆知識"である。



弊バーで通常初日にバーテンをしてくださった元気さんにYoutubeを撮っていただいた。開成を出て大学にいかず自分の道を進んだ過程の考えをうまくまとめていただいているなと嬉しかった。ちょっと綺麗事成分多めですけど多分良いこと言ってるので是非。

この動画で僕が言った「金銭的な成功だけが成功なのかな」という言葉はこういう文脈がある。まぁ後付けで言えばもちろん他にも文脈があって、AIとかweb3の文脈で資本主義とか貨幣経済の形が変わるよね、みたいな文脈とか(この辺は超門外漢なので付け焼き刃でしか知らないし分かりません)、最近僕の一番近くをとりまく芸術大学関連の友達たちや今住んでいる京都という土地が、そういう実利を追求するところから結構離れたところに位置していて、いろいろと自身の価値観に影響している文脈とか。なんにせよ、学生時代に思っていた「起業とかビジネスをバリバリやって稼いで成功を誇示してやろう」みたいな若く青く強い信念と、純粋数学を通じて自分の中に感じた実利から遠くにある幸せの乖離が、多分僕をこういうややこしい茨の道に進ませたのかなと今になって思う。

僕は「頭が良い」ということへの解像度に対して結構な自信がある、中高での友達、数学や将棋、ボードゲームなどを通じて知り合った友達など、「年齢にしては」という接頭語を付ければ頭が良い人たちと関わってきた数はとんでもなく自信がある。本当に環境に恵まれたし、人を見る目の形成にも結構な影響があるのは間違いない。実際、他人の考えを汲み取ったり、言語化したりすることに関してそこそこの自信がある。

こんな環境で形成された審美眼は良くも悪くもあり、自分の視野の狭さでもあったなと思う。ここ最近、金銭的成功や効率的・実利的な事から(少なくとも見かけ上は)離れたところで生きているような方と多く関わり、優しさや寛容さみたいな、もっと曖昧で掴みようのない価値観や能力を、大切にすることが出来るようになってきたと思う。
以前では見下していたしなやかさをリスペクトできるようになったなと思う。若かったな。

一文でまとめると学問をすることで優しくなる、という結構宗教じみた話になってしまった…  再現性があるかは全くわからないが、なんでもいい、「興味がある学びたいこと」にぶつかって、その概念の大きさ、強さ、高さにひれ伏すような体験は、人間の成長に一役買うのは間違いないような気もする。


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