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田舎暮らしについてのひとまずの報告 ④

そのおじさんはミネオさんといいます。三根生と書きます。男三兄弟の三番目だから三根生。それを聞いたとき、思わず笑ってしまいました。いまもまた笑けてきました。お腹の中の子どもがまたもや男だと分かったときの親の感情が一切のためらいもなく込められています。命名の瞬間が想像できる名前というのは、たとえばダイコンなんかがそうです。草を引っこ抜いて見たら、縮れた根のあるはずのところに、白くてずんぐりしたボディが登場するわけです。それで、大根。むしろ大!!根!!。口はあんぐりで、眼は飛び出しているに違いありません。それと同じで、彼の場合も、引っこ抜いて見たら、真ん中の辺りに既視感のある小根がついていたので、苦笑交じりのやけっぱちで名前をつけちゃったのでしょう。いや、きっとそうに違いありません。

名前がコンプレックスとなった時期、あるいはジョークとなった時期があったかは知りませんが、しかしいまや単に名前というだけに収まって久しい63歳です。年の割に若々しく見える人が多い町ですが、彼は例外です。痩せ身で、生え際もすっかり後退し、大粒の瞳の下にはそれよりも大きな隈が垂れさがっています。疲労と憂鬱の匂いが全身に染みついていて、日々の作業と作業の途切れ目で、生きていることそのものを厭うようにため息をつきます。人生の袋小路に長いこと留まっている人特有の、重たく、固形で、大気に散っていかずに地面に落下するかのようなため息です。しがみつくかのように彼は煙草を吸います。これがなきゃやってらんないよ、と暇さえあれば吸います。肺の底に向けて十分な命綱を下ろすと、彼は仕事にとりかかります。米ぬかやもみ殻を混ぜて鶏の飼料を調合し、100頭近い鶏たちにそれを与え、産卵箱から卵を採集し、計量して仕分け、取り引き先へ届け、さらには四頭の山羊たちに牧草やときにはキャベツの葉や芯といったごちそうをサーブし、小屋を掃除し、搾乳してはそれをミルクやアイスクリームへと加工し、さらには広大な敷地の草刈りや枝木の剪定をする。これらの仕事を一年中、規則正しく、続けるのです。

一見、農的で豊かな暮らしかのように思えるかもしれません。僕だって初めて彼が住み管理するファームを訪れ、にぎやかに平飼いされている鶏や人懐っこい山羊たちに触れたとき、その暮らしに無垢な憧れを抱きました。でもそれからいくつかの展開を経て僕も彼のファームの内部に暮らすようになるにつれて、事態は多面的であることを知りました。現実というのはつねにどこにあってもいいことばかりではないのかもしれません。彼は上のすべての仕事を一人でこなしています。動物相手で、一日たりとも怠ることはできない仕事です。ひとつの答え合わせに至るまでの期間は長く、その間にいくらでも不測のことが生じうる仕事です。新たな生という喜びもある一方で、避けられなかった死ということもまた起こります。僕が越してきたときにいた子山羊4頭は、夏から秋にかけて、3頭が亡くなりました。ひと夏のあいだずっと蠅の群れにまとわりつかれていました。年の割に未熟な体形で、獣医に診てもらっても原因不明ということでした。鶏は卵、山羊は乳を採るために飼っているとはいえ、それもいまの頭数では大して採算が取れません。かといって拡大できるほどの人手はどこにもないわけです。もちろん責任は状況の側だけではなく、当人の気質においても持ち分があることは否めません。でもこれは個人的な考えですが、基本的にそういった気質はいまさらどうしようもないわけです。走りはじめることを取りやめる賢明さがなかったのならば、とことん懸命に走りつづけなければならないのです。彼もまた自らの理想主義と職人気質という白線に沿って延々進んできた結果、ひとつの袋小路につき当たって、いまもまだそこから抜けだすことができずにいるのです。

実のところ僕はこのおじさんのことがかなり好きです。端的にいって、タイプなんだと思います。常に小型のラジカセを携帯し、鶏の餌をつくったり山羊の世話をしたりしながらFMの音楽チャンネルを流し、いつも何かをふんふん口ずさんでいるのですが、ときおり突如グハッといううめき声を発し、何事かと思って寄ってみると、またふんふんやったり、煙草をくゆらしていたり。ふだんはそこまで口数も多い方ではないけれど、山羊と接するときやけに熟達した山羊の鳴き真似で意思疎通を図ろうとしたり。人と話すときも、初対面の場合などは特に、操り人形みたいに大げさかつ不自然な身振りをつけてしまったり。ため息をつくときだって、頭ごと落ちるんじゃないかなというくらい首をがっくしやるわけです。まったくいい意味で、滑稽なところがある方なのです。極めつきは住み方です。このファームには彼の両親が老後になって建てた戸建ての立派な家があります。広い吹きぬけの玄関ロビーに、旅館のように立派な和室、8室もの客室。相当の金がかかっています。多くの美術品が蒐集され、飾られていました。でも彼は、東京や山梨で働いた期間を経て、両親のいるファームで暮らし始めたとき、どうしてもその巨大で堅牢な家が気に入りませんでした。やがて彼は敷地内にあった古民家を改修して暮らしはじめます。でもそこはまったくの別人がカフェを営業することが決まり、住めなくなりました。いまは同じく敷地内に小屋を建てて暮らしています。ソファベッドとデスク一台を置いたら埋まってしまうくらいの広さです。その脇には小型のコンロと流しがあるので料理は一応できます。風呂はありませんが、小屋の裏でホースを使って水浴びするので問題ありません。ある日やや困り顔で首をかしげながら「これじゃやどかりだよなぁ、自分の土地なのに」とこぼしていました。考えてもみれば、情けない話です。悲壮感すらあります。でもやっぱりこのエピソードにコミカルな響きがあるのは、どういうわけかこういう結末を招いてしまった原因が彼の真剣さにあるからです。

真夏のある夜のことでした。卵を直接買うために、僕はミネオ・サード・ハウスへ―ちなみに僕が住んでいるのはミネオ・ファースト・ハウスです、これまたどういうわけか―立ち寄りました。空は快晴で、夏の星座がはっきり浮かんでいました。日中の蒸し暑さは鳴りを潜め、代わりに丘のふもとの池では蛙たちが大合唱をしていました。ちょっとした立ち話のつもりが、何かの調子が合ったのでしょう、一時間を超す長話になりました。小屋の敷居越しに話していた僕らは、いつのまにか小屋の前のベンチ付きデスクに座っていました。ミネオさんの口から語られたのは希望と絶望の闘争史でした。ギターをつくりたくて会社に入ったら経理に回されてしまった日々。下北沢の飲食店に拾われてバイトの学生にすら教わりながら修行した日々。清里でフレンチシェフをしながら家庭を持って農的な生活を試みていた日々。川根にやってきてからの、ファームを使って、レストランを経営し、市民農園づくりに励んでいた日々。レストランは地元の客でにぎわいました。メニューのない、アドリブに任せた創作料理が売りでした。できる限り身近で育て、採れたものを使うこともまた信念のひとつでした。引いて委ねることこそが彼の哲学なのです。「小さくていいんだ」と彼は何度も言いました。反対に、計画し、効率を高め、優れたものを付け加えることを徹底して拒みました。現在育てている鶏も、土地の許す範囲で平飼いをし、卵を産むためだけの装置には決してしません。餌には一切の添加物を加えません。産み落とされた卵の黄身は、それゆえレモンのようなさらりとした黄色です。味だって美味しいです。もちろん、このスタイルが正解かどうかはよく分からないし、そもそも絶対的な正解なんてないでしょう。人はそれぞれ異なる目的があり、それゆえ異なる手段をとるだけです。彼の場合、農業というのはあくまで暮らしのなかにありました。というよりも、暮らしとともにありました。農的な暮らしが彼の目指すところでした。そしてその暮らしも当然また、引いて委ねるという思想に貫かれていたのです。自然に還って生きるということ。柔軟性に欠ける彼の場合、その信念は周囲との軋轢も生みました。離婚、娘との仲違い。やどかり生活もその延長といえるでしょう。そしてこのファームを切り盛りしていた父が急死しました。残されたのは広大な敷地と動物たちでした。料理を作る気力は失われ、地域と関わる余裕も無くなりました。生活はたしかに農的な領域にありますが、展望はどんどん先細っていきます。しばしの沈黙の末、こういう空の下で、と彼は呟くように言いました。「バッカ綺麗な星の下でさ、」と彼は絞り出すように力強く言い直しました。焚き火を囲んで、話をしたり、そういう瞬間が生きているなかでこれっぽっちでもあればいい。もしそれすらないなら、もうおさらばだよ。

きっと、いくらでもやりようはあるんだと思います。でもそういう話はここではしません。僕が言いたいのは、彼が確固たる信念を持ち、そこに忠実に―意図したものも意図しなかったものも含めて―生きているということです。その懸命さは、ときに滑稽な見え方をすることもあるのですが、そこにはやはり人を惹きこんでいく強烈な求心力があります。引いて委ねて、自然に還ろうとする自らの生き方を、ミネオさんは「百姓暮らし」と呼びます。そして自らを百姓であると、あるいはそこに向かう者であると見なしています。それを聞いたときは、率直に言って新鮮な驚きがありました。百姓だなんて、歴史の教科書でしか目にしたことのない概念でしたから。それがまさか百姓が現役のものだとは。しかも彼だけというのではないのです。川根には百姓を名乗る人があちこちにいるのです。

(続)

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前回の話です。


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