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Cahier 2020.11.07

普段大して忙しくもない本業に追われまくり、久々の更新となりました。

ほら、イナゴだって一匹二匹じゃどうってことないけど、大群になって押し寄せると災害になるじゃないですか。何ごとも数重なるとまあまあ侮れないボリュームになるものです。

先日、ソフィア・コッポラの最新作『On the rocks』を観てきました。

それほどコアなコッポラ映画ファン!というわけではないものの、ティーンエイジャーの頃に『Virgin suicides』や『Lost in translation』を観たときの憧れと共感に震える感性のざわめきみたいなものは、その後の20代も通底音のように低く鳴り響き続けていたのでした。

ぼんやりとした不安と恍惚のない交ぜになった、捉えどころのない自由な感覚と儚い美しさ。わたしにとってそうした青春時代のイメージを象徴するのがEdison woods の音楽であり、ソフィア・コッポラの作品の中のキルスティン・ダンストでした。その基底にはたしかにメランコリックな気配があり、その後、キルスティンはラース・フォン・トリアー監督の『Melanchoria』という文字通りな作品のヒロインを演じ、”メランコリー”と”ノスタルジー”という西洋思想に古くからあるこれらの概念を表現できる稀有な女優へと躍進します。

他方、『Lost in translation』のヒロイン・シャーロットを演じるスカーレット・ヨハンソンに対しては、『Virgin suicides』のキルスティンとは別種の、もっと現実味のある実在的なイメージを感じていました。パークハイアット東京でシャーロットとビル・マーレイ扮するボブを取り巻いていたのはメランコリー(憂鬱)というよりもアンニュイ(倦怠)で、彼らにはその中で幻想的な遊戯に興じることのできる現実的な逞しさがあります。つまり、倦怠に呑まれて憂鬱に陥らないだけの現実に対する肯定感、観念的なものに支配されない実在力があるのです。

ウェルテルじゃないですけど、若い頃というのはとかく観念的なものに振り回されがちなもので、わたしもそのご多分に漏れず(ゲーテファンでもありましたし)実在より観念、スカーレットよりキルスティン派でした。

ここまで前置きを長く書いておいてなんですが、『On the rocks』にはスカーレットもキルスティンも出てきません。ヒロインはラシダ・ジョーンズです(女優にして、ものすごい才媛なのでぜひチェックしてみてください)。そして『Lost in translation』に出ていたビル・マーレイが登場します。

ラシダ扮するローラは作家であり2児の母。家事育児に追われ、仕事もあまり捗らずに悶々としている中、仕事で忙しくあまり家庭を顧みなくなった夫とすれ違い、次第に自信を失い疑心暗鬼になっていく30代後半の女性です。その父親をビル・マーレイが演じているのですが、その娘想いなチャーミングな父親像が素晴らしい!年を取ってもなお『Lost in ...』のときと同じ洒脱で軽快なムードをまとったビルの姿に、胸がじーんと熱くなります。

とはいえ、彼はただ娘を励ますのではありません。「お前の夫は怪しい」と言って、ローラの不安に付け入るようにして尾行や調査を推し進めていきます。アメ車をぶっ飛ばして夫を尾行し、待ち伏せしながらキャビアを食べるシーンなんて最高に愉快で洒落ているのですが、ローラにはそんなことを楽しんでいる余裕は微塵もありません。最終的に夫は無実であって、怪しいとけしかけたお父さんはローラから見離されるのですが、惨めで空しくはあれど、それこそが真の父の愛。父親である自分の手を離れ、苦しくとも夫への愛を信じて進んでいかねばならない娘への最後のエールなのでした。

ストーリーはざっとそんな感じで、いわゆるFather's daughter の系譜の物語なのですが、それまでのソフィアの作品と少し違うのは自伝的と思われる要素が多いこと。ソフィア作品を際立たせていた特徴のひとつである、ちょっとした浮遊感みたいなものが背後に回り潜んでいることです。『Marie Antoinette』のヴェルサイユ宮殿に代表されるように『Lost in...』のパークハイアット東京や『Somewhere』のシャトー・マーモントなど、ソフィアの作品の舞台は現実生活とは別次元に設定されていることが多く(それゆえにハイソ趣味と揶揄されることもあるのですが、ソフィアはもともとハイソ出身なので)その夢のような舞台空間が独特の浮遊感と軽快さをもって描かれていました。

しかし、今回の作品舞台はN.Y.のアパートで、普段ローラが生活するのは娘のプリスクールやキッチン、リビングといった紛れもない生活空間。プリスクールのママ友はうざいし、仕事は遅々として進まずポストイットだけが増え、いかにも忙しない生活感が漂うものの、小さな娘の髪を梳かしたり靴を履かせたりするごく短いシーンの一コマ一コマには優しく温かな母のまなざしが感じられます。かつてレースや香水を手繰っていたか細い指先が、幼子に触れる母の手へと変化していく。作品と作品の間に、監督自身が生きた時間の流れを感じた瞬間でした。

また、ボーダーニットにパンツ、歩きやすいローファーにゴールドのチェーンネックレスとシンプルなピアス、といったローラのファッションもソフィアのそれとよく似ています。上質だけど堅苦しくない絶妙なバランスが魅力のそのスタイルは、キメすぎないナチュラル・シックと評判であるものの、それは室内楽のようにオーセンティックなエレガンスから一歩引いた、生活の中に身を置くリアルな姿に他なりません。”父の友人”であるN.Y.のハイソマダムがローラに投げかける視線から、ソフィア自身が自らのファッションをお洒落と自覚していたわけではなく、どちらかと言えば”服装に構わないスタイル”だと感じていた様子であることも伺えました。自伝的というのは、この作品がソフィア自身の物語であるということではなく、カメラを通じて描かれたフィクションの世界の細部に彼女自身が如実に表れていることを意味します。

一方、レストランやクラシックカーなど父親の属する世界だけが従来のふわっとした洒脱さを漂わせており、作品に”ソフィア・コッポラらしさ”を生み出しています。作品全体のタッチがソフィア自身の生きた時間を反映しているのに対して、ビル・マーレイ扮する父親だけは容姿こそ変化したものの、印象としてはいささかも経年を感じさせないことに驚かされます。”永遠に父なるもの”に対する限りない愛のこもった不変のまなざしこそ、年齢や境遇に応じて変化せざるを得ない女性監督であるソフィア・コッポラを、同一性をもった一人の映画監督として成熟させた鍵だとも言えるでしょう。

この作品が発表される1年前(去年)、ノア・バームバック監督による『Marriage story』がNetflixで配信されました。そこではスカーレット・ヨハンソンが泥沼離婚へと立ち向かう妻を好演し、同作はアカデミー賞6部門にノミネートされました。今日はソフィア・コッポラの回なのでこれ以上は触れませんが、かつてパークハイアット東京の一室で倦怠を持て余しながら夢と戯れていたビルとスカーレットが、15年以上もの時を経て、再び”結婚”というテーマと向き合い、演じてくれたことにも、通時的かつ共時的な発見の喜びを感じずにはいられません。そして、いずれも”結婚”を実在的に描いた作品であることに改めて想いを馳せずにはいられない、婚活真っただ中のわたしなのでしたー(オチはそこかよ)。


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