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雨催い【短編小説】

 男は、いまにも雨粒が降ってきそうな雲のした、湿った空気がぎっしり詰まった隙間をかき分けるようにして、ゆるい上り坂を登っていた。動くと滲んでくる汗をハンカチで拭いつつ、坂の上の建物の前まで来ると、立ち止まって、来た道をふり返った。
 あとにしてきた街が、重そうな雨雲の下で、どの建物も似たような灰色に染まり、陰鬱にうずくまっている。

 男は建物のほうに向き直った。ドアの前に小さな看板がある。
薄墨亭うすずみてい
 彼は年季の入ったドアの前でほっとため息をつく。喉が渇いてはりつきそうだった。

 男は分厚い木製のドアを押し開けて、店に入った。
 とたんに温かな、いろんな匂いの津波がどっと押し寄せて、彼を包み込んだ。焼いたパンの香ばしい香り。とろけたカスタードクリームのような重くて甘い匂い。コーヒーの苦さと甘さが複雑に絡んだ匂いが木のようにすっと立ち上がり……その層のしたから浮き上がる、軽やかなきらめく芳香。

 若草色のエプロンを身につけた、痩せた小柄な女の子が近づいてきて、なにか小声で呟くと、空白のような無表情のまま、店の奥に向けてひらりと手を振ってみせた。
 店の中には四人がけのテーブルと椅子が四組あり、他に客の姿はなかった。大きい窓がひとつあり、窓の大きさはほとんど壁一面と同じくらいで、どの席からも外の景色がよく見えそうだ。
 フロアの横のカウンターには、レトロな布張りクッションのスツールが五つならび、年月が染め上げた濃い飴色の木製カウンターの向こうには、店主らしい年配の女性のふくよかな姿が見えた。女の子と同じ色のエプロンをしている。
 店主は柔らかい笑みを浮かべ、タオルとメニューを抱えてカウンターを出ると、男に近づいた。

「さあさあこれで汗を拭いてください、テーブルにどうぞ。……お仕事でいらしたかたですか。雨が降りそうですね。このあたりは、この時期いつもそうなんですよ……」
 やわらかい声で話をしながら、店主はメニューをテーブルに置いた。彼はメニューの前の椅子をひいて腰かけ、鞄を隣の席に置いて、上着をぬぐと椅子の背にかけた。身体も気分もかなり軽くなった心地で、受け取ったタオルで首すじを拭いながら、薄い木の板でできたメニューを覗きこむ。

朝取りたまごのサンドイッチ
サバと香草のサンドイッチ
クロックムッシュ
クロックマダム
焦がし赤砂糖のトースト

バタークリームケーキ
ブルーチョコレートケーキ
季節の苺のケーキ

コーヒー ホット&アイス 
紅茶 ホット&アイス
(どちらもお好みで花を添えて)

 男は、拭く手を止めた。
「この、花を添えてってなんですか?」
 質問を口に出してから、顔を上げてまわりを見回した。いつの間にかカウンターに戻っている店主が嬉しそうに笑った。もうひとりの女の子の顔には相変わらず表情がなく、彼女がふたり分の笑いを担当しているんです、とでもいうように。
「お好きな花をひとつ選んで、入れるんですよ」
「入れる?花を?」
「はい」
「えっ、コーヒーに花を入れるんですか?」
「そうです」
「なんでまた」
「いい香りなんですよ」
「香り……」

 男が面食らってぼんやりしていると、店主は、またカウンターから出てきた。手に何かを持っている。彼女は彼の前に、長さ10センチくらいの、細い棒のようなものを3本並べた。男は中のひとつをそっと手にとって眺めた。

 糸のように細くて軽い薄緑の茎は、ガラスのように半透明で、茎の一方の先っちょに、小さな花弁らしきものがくっついている。慎重に触ってみると柔らかくてしなやかで、どうやら生花だとわかった。
 花はごく薄い赤色と、桃色を帯びた紫色、鮮やかな水色の三色で、店主はそれぞれを指さしながら「あさべに、あやめ、つゆくさ。という、花の名前です。うちの村の特産ですよ。飲み物や、甘いものをいただく時なんかに使います」
「あさべに、あやめ、つゆくさ……」男は言葉を口のなかで転がすように繰り返した。それから慌てて鞄をひったくると、なかから手帳と万年筆を取り出した。
「あのっ今の、花の名前、漢字表記できますか?ちょっとここに書いてもらいたいんです」
 男の様子が急に変わったので、店主は驚いたものの、差し出された乳白色の紙の表面に、万年筆で書きつけた。

浅紅 菖蒲 露草

「あさべに、あやめ、つゆくさ……なんてきれいな名前だろう」
 男はひどく嬉しそうな様子でうっとり名前の文字を見つめ、浅紅という花を鼻に近づけて匂いを嗅いでみた。おや、と不思議そうな顔になる。
「匂い。……は、しない気がしますが」
 男の問いかけに、彼女は首をかすかに傾け、笑いを含んだ声で言った。
「そのまま使うんでないです。何かに入れると反応するんです」
「反応?」
「出会わないと反応が起こらないんです。ご注文は、どうされますか?」
 彼は少し黙ってから「じゃあホットコーヒーを、この、露草?で。あとたまごサンド」
「はい。露草コーヒーのホットと、たまごサンドですね」
 店主はあえて、花を3本ともそのままにして、カウンターへと引き返した。奥の厨房にいるらしい女の子に注文を伝えたようだった。

 男はふりがなを花の名前の漢字に書き込むと「あさべに、あやめ、つゆくさ……」と呟いて、目の前に並べた花を見つめながら、なにか夢中で考え込んだ。花を取り上げると手もとでめつすがめつし、万年筆で手帳になにか書きつけた。あまりに自分の考えに夢中だったので、食べものを載せた盆を持った女の子が、男のそばにいった時も、彼はそのまま顔をあげようとしなかった。

 食べ物を載せた盆が勢いよくテーブルの上に置かれた音で、男はびっくりして飛び上がった。みると、女の子がじっとメモ帳を見つめている。
 女の子の口が開いて、そこから息がもれ、ため息のような音が聞こえた。女の子がなおも凝視しているのは、どうやら万年筆で書きつけた文字のようだ。彼は、彼女がなにか言葉を言おうとして懸命になっているのだと分かった。
 女の子は白い頬を真っ赤にして、何度か口を開いたり閉じたりし、ようやく
「あ……ま……も、よい」
 と告げると、はあっと大きく息をついた。
 男は驚いて、深呼吸を続ける女の子をじっと見た「そう!そうです。あまもよい……よくご存知ですね。もしや、あなたも使っているのですか?」
 女の子は顔をあげ、勢いよく何度も頷いた。彼の目は輝いた。
「ぼくはインクを作る会社で働いているものです。『雨催あまもよい』という商品は、じつを言うとぼくが中心になって開発したものなんです。実際にお客さまにお目にかかれるなんて、こんなに嬉しいことはない。いつもありがとうございます」
 女の子の赤い顔がみるみるほころんで、花が咲いたような明るい笑顔が浮かんだ。そして盆からたまごサンドとコーヒーをテーブルに置くと、ぺこりと頭を下げてカウンターの内側へと下がった。

 男は女の子の後ろ姿を目で追い、しばらくカウンターのほうを見ていたが、やがてコーヒーに向き直った。並んだ花のなかから水色のものを取り上げて、じっと凝視しながらゆっくりと、芳しい湯気のたつコーヒーの表面に近づける。
 コーヒーの表面を覆う白い湯気が花を湿らせると、花は一瞬、かすかな青い蒸気に包まれてぼやけ、茎の先端でみるみる青いしずく玉に凝ると、ぽつりとコーヒーに落ちた。
 黒い水面から水色の湯気がたち、嵐の夜が過ぎたあとの夜明けの匂いが広がった。男は大きく息を吸い込んで、なるべく香りを味わってから、細くながく息を吐き出した。

 コーヒーカップを持ち上げて、表面を観察してから、すこし味わってみる。
 不思議なことに、先ほどの香りはすっかり消えて、いまはコーヒーの香りしかしなかった。彼は喉の渇きを思い出すと、ひとくち、ふたくち、飲み下してため息をついた。
 次にたまごサンドに手を伸ばすと、大きなひとくちをかじった。まだ温かいサンドイッチは、たまごの濃い味わいで、クリームのように口のなかで溶けてなくなった。男は夢中で頬張り、あっという間に平らげてしまった。

 大きな窓から見える景色に変化があった。
 空気のなかに含まれていた水が、重さに耐えきれずに、雨になって降ってきたのだ。
 銀色の細い雨は柔らかく一面に降り注いで、窓から見える広場と小さな畑の景色全体に、鉛白えんぱく色のヴェールをかけた。空気が沈むと、植物のしっとりした緑は逆に浮きあがって、彼らにとっての昼食を喜んでいるようにも見えた。

 店の奥から女の子が歩いてきて、男の席のそばで立ち止まった。
 手に一枚の紙を持っている。彼が顔をあげると、彼女は真面目な顔つきで紙を……便箋を差し出した。その手のわずかな震えが紙にも伝わり、紙のフチが風に吹かれる草のように揺れている。
 男が便箋を受け取ると彼女は少し慌てたようすで、また奥へと引っこんでしまった。
 彼はふたつに折られた象牙色の便箋をひろげて目を見はった。そこに並んだ丁寧な文字が、たしかに『雨催い』のインクで書かれていたからだった。


『わたしは生まれつき、言葉を上手に口から出すことが難しいのです。
吃音きつおんというそうです。小さい頃からいろんなお医者にかかりましたが、原因はわかりません。
そのせいもあって、友だちがなかなかできないし、できても長続きしません。寂しいことですが、しかたがないのです。
かわりに文字を書くようになりました。わたしの話し相手は日記帳です。書くことはわたしにとってとても大切です。それなしには生きることができないと思うほどに。
日記帳と、万年筆と、ペンのインクを選んでいるときが、人生でいちばん楽しい時間です。そのなかでも特に、いまここで使っているインク、雨催いは気に入っています。
このインクで書いた文字の、雨が降りそうな曇り空と、深い森の匂いと、空気に漂う気配をぜんぶ混ぜたような、複雑な色合い。さいしょの一文字を書いた瞬間からわくわくして、書き終わって文章を眺めると、自分で書いたものなのに、なにか別世界の本を読んでいるような気分になって、うっとりします。とても不思議。
このインクを作っている会社にお礼をいいたくなって、ファンレターを書こうとしたことがあったのですが、誰が、どういう過程を経てインクを作るのか、まったく分からないので、うまく書けずに諦めてしまいました。でも、あなたにお会いできて、これもなにかの計らいかと、急いでペンを手に取りました。
素晴らしいインクをこの世に生み出してくださり、ほんとうにありがとうございます。』



 男は手紙を3回、読み返して、何かにじっと耐えているような顔でしばらく黙っていた。そして丁寧に折り畳むと手帳に挟んで、鞄にしまうと、財布を取り出した。
 男は立ち上がって上着をはおり、カウンターのなかに立っているふたりの方へ歩み寄り、まずは店主に勘定を支払うと、女の子に目を向けた。

 ふたりは向かいあった。女の子は緊張で顔が赤い。男の方はといえば緊張と、戸惑い、泣きたい気持ち、叫び出したいほどの嬉しさにはち切れそうになっていたが、それらを全部こらえて、やっと立っていたので、なんとも言えぬ表情をしていた。彼は懸命に言葉をさがし、つっかえながら話しはじめた。

「あの、手紙ありがとうございます。とても、とても嬉しかったです。……ぼくはいまの仕事を始めて今年で十年になります。元々インクで文字を書くことが大好きで、自分で望んでいまの仕事についたのです。
 最初の二年は無我夢中でした。次の三年は仕事が面白くてたまらなかった。その時に「雨催い」も開発しました。でも、それに続く五年のあいだは……仲間が次々と売れる商品を開発するのに、ぼくはさっぱりでした。
 これがうけるに違いない、そう思って開発を始めるんですが、だんだん自信がなくなります。やっと販売まで漕ぎ着けても、あまり売れないまま、生産中止になってしまうことが続いていました。ぼくは、自分はどうしてインクなんか作っているのだろう、どうせ誰もぼくが作るものに興味がないに決まっているのに、と考えるようになっていました。
 でもここで、あなたから手紙を貰って、こうしてぼくの開発したインクを愛してくれるひとがいることが分かって、とても……」
 男は言葉につまり、感極まったように俯いた。それからしばらくして、また顔をあげた。
「……とても。……衝撃で、いや違うな、元気をもらった……それじゃ足りないな、えーと、ものすごく寒い日で凍えそうになってるとき熱い飲み物を渡されて、ありがたい生き返ったっていうか、そういう気分になりました。伝わりますかね。
 ぼくはインクで文字を書くことが好きで会社に入った、でも仕事になったら、インクを実際に使う人のことを忘れていた。ぼくが自分の評価を仲間と比べて焦ったりとか、そんなのは全部、使う人には関係ない……インクを使って、ペンで、万年筆で文字を書くことを、愛してくれるひとがいる。その事実が、すべてですよね。うん、見失ってたものを、また見つけました。ぼくはもう間違えません。もし迷うことがあったら、いただいた手紙を読みます。これは」
と、男は鞄を叩いた。
「これからずっと、ぼくの進む方向を照らす灯りに。指針になります……それで、あの、えっとその」男の顔がますます赤くなった。「差し支えなければ、その、あ、握手してもらっても、いいですか?覚えておきたくて……今日のことを一生の宝物にしたくて」

 男が差し出した震える手を、女の子が握った。

 ふたりとも真っ赤な顔をして、張りつめた空間のなかでお互いを見つめあって、その場に立っていた。

 店主はすこし離れた場所で空気になりきって見守り、はじまった、と感じたのだった。始まった。とても素晴らしい、素敵なことが。

──その後の顛末を駆け足で語ろう。

 男はその後「浅紅」「菖蒲」「露草」という美しい名前のインクを開発して、それが大評判になり、インクの会社と、商品を卸している文房具屋には長い列ができ、関係者はみな、うれしい悲鳴をあげた。

 そして男はその後も、薄墨亭に通った。
 5回目の訪問で、男と女の子は恋人同士になった。
 10回目に行ったとき、結婚の約束をした。

 ……そして20回目の今日、ふたりは村の教会で結婚式をあげた。
 披露宴の会場はもちろん薄墨亭だ。店と、窓を開け放った先の広場に、大きなテーブルがいくつも置かれて、その上には、店の自慢のたまごサンドとサバサンド、焦がし赤砂糖のトースト、ケーキとコーヒー、他にもいろんな飲み物が置かれた。
 その傍らには、あの「浅紅」「菖蒲」「露草」があった。
 会場に来た客は、そして新郎新婦のふたりも、それぞれ好きな飲み物に花をかざして、しずくの香りを楽しんだ。広場ぜんぶが、えもいわれぬような、うっとりする香りで満たされた。

 地上では宴が繰り広げられていたが、空には薄墨色の雲が、まるで神さまがさした巨大な傘のように広がってきた。

 客のひとりが空を見上げて、新郎新婦に声をかけた。
「なんだか雨が降りそうだね。だいじょうぶかな?」
 それは気遣いから出た言葉だったが、ふたりがひどく幸せそうに笑いあったので、客は不思議そうな顔になった。

 雨催い。

 ふたりの晴れの日に、この上なくぴったりで素敵な天気だ。


(完)


◇◇◇

夕月檸檬さんの、こちらの記事で「雨催い」という言葉を知って。
いつかこの言葉をタイトルにして物語を書くと宣言したものの……一年以上経ってしまいました。夕月さん、素晴らしい記事をありがとうございます。
遅くなって申し訳ありません。

雨催い(あめもよい)

「雨模様」の元の形とされているのが「雨催い」。「あまもよい」とも読むそうですが、この「もよい」は「名刺の下につけて、そうなる気配が濃いさまを表す。きざし」(大辞林)という意味。つまり雨催いも、「雨が降りそうだけれど、まだ降ってはいない天気」を指すということです。

『春は曙光、夏は短夜 - 季節のうつろう言葉たち』印南敦史レビュー(作家、書評家)


今回の小説ではいくつかの試みをしました。

①色、香り、味、などの描写を頑張ってみる
こないだ購入した本「文章の書き方(辰濃和男/岩波新書)」を読んで触発され……。私の書いたものがどれも漫画っぽいのは、筋立てもありますけど、オノマトペを多用し過ぎているせいかもしれない、と思ったのです。なので、それ以外でなんとか表現できないか、頑張りました。……しかしやってみると難しい!

②日本の色の名前を使ってみる
せっかく「雨催い」という日本のきれいな言葉を使うのだから、他でも意識してみようと思いました。
こちらのサイトを参考にしました↓


③吉田篤弘風を目指してみる
「月とコーヒー(吉田篤弘/徳間書店)」
一読して、なんかこういうの私にも書けそう…と不遜にも考えて、実行してみたんですが。確かに自分、不遜です……。言うは易し行うは難し。
せめてリンクを貼っておこう。

もうひとつ、ちなみに。
雨が降る結婚式は縁起がいい らしいっすよ!


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雨の日をたのしく

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