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はらつづみ【掌編小説】

 秋の終わりの、霧雨がけぶるように降る朝。
 傘をさすべきか迷いながらも結局、一度もささずに、湿っぽい髪のまま駅の改札を抜けた。
 このあと待っているのが仕事なら苛立たしい気分になっただろうけど、パートが休みの日なのでまあいいか、と鷹揚に構え、濡れた線路の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりホームを歩いてゆく。既に出勤ラッシュの時間は過ぎて、床に描かれた扉の印のところにひとりふたりと人が立っている程度で混んではいない。

 午前十時に着くように、九時五十分の電車に乗るつもりだ。図書館に本を返しに行くついでに気晴らしに駅ブラして、外食しようと思っていた。重く灰色の雲が垂れ込めた空を見あげる。どっちつかずの雨、じっとり濡れてまとわりつく空気。まるで今の私の心の中みたいな風景だ。

 小学三年生の息子が不登校になって、今月でもう四ヶ月目になる。
 突然、学校に行きしぶりだし、校門をくぐっても、具合が悪いと先生に訴えて頻繁に保健室に行くようになり、しまいには通学路の途中で進めなくなって引き返してくるようになった。友達とも遊ばなくなり、呼びかけても目を合わせようとしなくなり、貝のように押し黙って携帯ゲーム機にかじりついている。
 何度目かの学校からの電話で、養護教諭に児童精神科の受診を仄めかされた時は正直言ってショックだった。

 どうしたの?何がしんどいの?と、手を替え品を替え何回も訊いた。ようやく口を開いても「わからないけど、疲れるしとにかく無理」としかいわなかった。担任の先生に訊いても原因が思い当たらないという。確かに、以前の放課後に友だちと遊んでいる様子をはたから眺めていても、息子はみんなと楽しそうに過ごしていて、特に問題はないように見えたのだ。原因を探そうとすればするほど、混乱が深まるばかりだった。
 私は事態を打開する突破口を探そうと担任の教師や校長先生と何度も面談を重ねたが、最後には、しばらく登校を見合わせようということになった。

 児童精神科の医師は穏やかに、でもしっかりと私の目を見て話した。
「お母さん、学校はしばらくお休みさせましょう。勉強?学校からプリントをもらうとか、教科書対応の問題集を買うとか、方法はありますよね。ただ、代わりに塾に通わせるのはやめたほうがいいです。お子さんは健康に見えますけど、体じゃなくて心が疲れているんです」
 私は言い募った。
「でも家ではいつもと同じで普通に会話できるし、朝から晩までゲームばかりやってるんです。時間を決めてやろう、とか提案してみるんですけど頑として放さないし、しまいには黙り込んで不機嫌になってしまって。そのままこじれるとご飯も食べなくなります……こうしている間にも他の子は勉強しているのに、と思うと、どうしても焦ってしまうんです」
 医師は頷いた。
「そうですよね。皆さんそうです。心配は分かりますが、ゲームはいま、彼の心が必要としているんです。無理に取り上げると、もっと悪化してしまうかもしれない。大丈夫、子供の方から学校に行こうかな、と言う日が必ず来ますから、やりたいようにさせてあげてください。心が整わないうちにいくら勉強させても絶対に身につきません……お母さんが焦ったり泣いたりするのが一番良くない。平日の午前中はお仕事?なら続けた方がいいですね。一日中そばにいると互いに煮詰まっちゃうかもしれないので」

 息子の昼食用におにぎりを握って、昨夜の残りの唐揚げと一緒に冷蔵庫に入れてある。自分だけ店でランチをするのはいささか後ろめたいが、平日の午前中に子供とうろついているのを知り合いに見られたくなかった。
 私はため息をついた。
 誰にでも起こり得ることだと医者は言っていたし、悪いことをしてるわけじゃない。でも、どうしても後ろめたい気持ちになるのだ。
 彼がこうなった原因はもしかしたら自分ではないか……彼はこのまま人生を踏みはずし、底まで落ちて這い上がれなくなってしまうんじゃないか。良くないと思いつつも、ネガティブなことばかり考えてしまって絶望的な気分になる。私が息子を信じられていないんだろう。それがきっと、彼にも見透かされている。

 夫は一年間の単身赴任で、帰って来るのは三ヶ月後だ。まだ不登校のことを話せていないけど、ギリギリまで黙っていようと思っていた。夫の性格では、無理にでも学校に行かせようとするだろうし、そうなれば事態が悪化することは目に見えている。
 相談する相手は誰もいない。話したところでどうにもならない。私の心は毎日少しずつ岩のように硬く、重くなっていく。それを危なっかしく抱えながら、パートの職場でも自宅でも表情を取り繕って生活するうちに、ぐったり疲れてしまった。この重さを抱えきれなくなったとき、私は息子に不安をぶつけて酷く傷つけてしまうだろう。物理的に距離をとることが必要だ。……私はまた、ため息をついた。

「まもなく◯◯駅行き電車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください」
銀色の電車がホームに滑り込んできた。


 乗り込むと、さらに湿度の高いむっとした空気が充満していて、窓は結露で白く曇っている。座席は全て埋まり、吊り革は二割程度の人がぶら下がって、それなりに空間があった。私は左右に人がいない位置で吊り革に捕まり、なにげに目の前に座っている人々に視線を走らせ、目を丸くした。

 私の目の前に座る若い女の子。その隣にサラリーマンらしきスーツのおじさんが座っている。四十代半ばくらいか。

 問題なのは、そのおじさんの頭の上に載っている葉っぱだった。

 おじさんは僅かに俯き、ビジネス用バッグを膝に抱えて目を閉じている。眠っているのか寝たふりか。背は低めで隣の女子大生っぽい女の子と同じくらいだが、丸顔で、体型はぽっちゃりしていて、幅は女の子の1.3倍はありそうだ。髪の毛は少し生え際が後退し始め、額の面積を増しているけれども、まだ充分に量はありそうで、色も真っ黒、髪型もごく普通。要するに普段なら目の前をスルーしていたであろう平凡さだった。

 そして問題の葉っぱ……おじさんが目を閉じているのをいいことに、私は無遠慮に観察した。
 頭の真上にしっかりと乗っかった、それ。どう見ても作り物ではない本物の葉っぱだ。今の時期によく歩道に落ちているような。けやきの葉だろうか、長さ15cmくらいで、紡錘形というのか両端が細くなった楕円のような形で、端がギザギザしている。黄色とオレンジ色と赤が混じった美しい色合いは、おじさんが身につけた濃いグレーのスーツと、座席のダークグリーンの中で華やかに浮いている。

 私はジロジロ見過ぎないようにしながら考えた。落ち葉がちょうど落ちてきて、雨に濡れた髪にくっついたのかな?
 いやそれにしても、頭の真上で微動だにしない安定感なので、もしやヘアアクセサリーだろうか。……いや、ないな。あの年代の男性で、いくらなんでもそれはない。どうみても本物の、天然の、葉っぱだし。本気でおしゃれのつもりなら、相当、奇抜なセンスの持ち主だろう。

 そこまで考えた時、私の正面──おじさんから見ると右隣──の女の子が、チラッと横目でおじさんの頭に視線を向け、目線はそのまま車内をキョロキョロと動いて、私と目があった。私たちは二秒ほど見つめ合い、次におじさんの葉っぱを二人同時に見て、また視線を互いに戻し、どちらともなく外した。初対面だがテレパシーで繋がったように彼女の思考がわかる。おそらく向こうも同じだろう。

(見えますよね?) (葉っぱありますよね)

 笑いがこみ上げて口元が緩みそうになり、グッと口を結んだ。すると今度はおじさんの左隣、背の高い初老の女性が、一秒ほど葉っぱに視線を向けたのが見えた。
 私は何となく辺りに意識を向けてみた。すると、おじさんを中心にした半径1.5mくらいの範囲にいる人たちが、チラチラその葉っぱを見ていることに気がついた。

 車内アナウンスとともに次の駅に到着したとき、ガタン、と電車が揺れて、おじさんが少し進行方向──女子大生側──に傾いた。その瞬間ハッとした空気が流れて、範囲にいる人たちの視線が一斉に葉っぱに集まるのがわかった。

 おじさんはガタン、と次の揺れで元の体勢に戻った。

 葉っぱは微動だにせず貼りついたまま。

 電車が走り出したあと、周りの人たちはまた、何事もなかったようにスマホや新聞に視線を戻した。
 でも、私には彼らの内心が手にとるように分かった。おそらくみんなも私と同じように、周りの人びとの内心を押し測っているだろう。

(いつ気づくんだろう?) (声をかけてあげるべきだろうか) (取ってあげた方がいいのかな、でもなあ) (写真撮りたいけど、流石にまずいよね)……

 車内は静かだったので、後ろの座席から、ヒソヒソ声が聞こえてきた。どうやら親子らしい。
「ねえママあ、あのおじさん頭に葉っぱ……」
「しっ!指差しちゃだめ。うんそうね。けど静かに」
「なんで?」
「電車の中でね、あんまり知らない人のことを声に出して色々言うもんじゃないの」
「どうして?」
「相手が嫌な気持ちになるでしょ」
「そうなの?マミはいやじゃないよ」
「大人は嫌なの。人の嫌がることはやめようね。もうすぐ降りるから、傘、忘れないようにね」
 そちらを見なくても、声で子供は6、7歳くらいかと分かる。母親の焦っている気配に少し同情する。わかるな、あの年頃の子供ってそうなんだよね。息子が一年生の頃、エレベーターで乗り合わせた中年の女性をじろじろ見ながら「ねえ、この人、おじさんかな、おばさんかな。どっちかわかんないね」と大声で評して空気を凍らせたことがある。
 しばらくおさまっていた女の子の声がまた聞こえた。

「ねえママあ……」
「マミちゃん、声、もうちょっと小さく」
「あのおじさん、もしかしてたぬきさんかな」
「えっ?」

 車内の空気が微妙に変わった。
 周りにも聞こえているだろう。みんなが、女の子の声に耳を澄ませた気配がした。女の子は全く無自覚に、目に見えない意識の流れのようなものを惹きつけ束ねている。

「お話しで、たぬきさん変身する時、頭に葉っぱ乗せてた」
「そう、だっけ。狐じゃなかった?」
「うんそう。狐さんも。でもおじさん、たぬきさんみたいだし」

「ふ」
「くっ」
 抑えた、短いため息のような声が周囲の人の口から漏れた。前の座席の女の子が笑いかけ、口元を手で押さえたので、私もつられて笑いそうになり、口と一緒に手にも力を込めた。
 そうか、たぬきか。子供の発想って面白いなあ。確かに、狐よりはたぬきっぽい見た目だ。
 そう考えるとますます笑いそうになって、私は強引に考えを別の方向に逸らそうと、心の中で(たぬき…たぬきたぬきたぬき)と唱えた。すると頭にアニメの映像が浮かんできた。大昔に観たアニメ映画の絵だ。

 確かたぬきの住んでいる山が宅地開発されることになって、棲家を守ろうとしたたぬき達が人に化けて、人間に対していろいろ抵抗活動をする、という内容ではなかったか……。
 たぬき達は頑張るけど、最後には人間に負けて棲家を追われる。仕方がないので彼らは人間に化けて、人間の社会に入り込み、人として暮らすことになる。そして視聴者に向かって語りかける。
『人間が自然を切り拓いて動物たちはどこかへ消えた、っていうけど、僕らは煙のように消えたわけじゃない。家が壊されたから、こうして人に混じって他所で生きるしかなかったんだ。人間のみんな。僕たちが確かに居たことを、今も居ることを、忘れないでほしい』
 そこまで考えたとき笑いの衝動は吸い込まれるように消えた。葉っぱおじさんは相変わらず葉っぱを載せたまま、目を閉じて軽く俯いている。あの子が言うように、本当におじさんはたぬきなのかもしれない。何かの拍子にうっかり葉っぱが見えてしまったのかも。
 私は、午前中なのにちょっと疲れているようなおじさんの顔を眺めた。人じゃない生き物が人として生活するってどんなだろう。きっと疲れるに違いない。人間として生まれた私でさえ、人間やることに疲れてしまうくらいなんだから。

 電車は減速し、車内アナウンスが次の駅に止まることを告げた、そのとき。
『ポン!ポンポンポン!ポン!ポンポンポン』とリズミカルな鼓太鼓のような音がして、私を含めた周りの人間はビクッと驚いた。するとおじさんがカッと目を開き、慌てたように上着の内ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出して耳に当て、周りにペコペコ頭を下げながら「はいぃおだぬきですぅ、あのっいま移動中でして、あの折り返します、どうもすみませぇん」と小声で応対し通話を切った。そして、くりっとした丸い目で周りを見渡すと、愛嬌のある笑顔でにっこり笑い、ペコリと頭を下げた。葉っぱも頭の動きにつれて上下した。
「すみませぇん、どうもお騒がせしました」
 おじさんは丁寧な口調でそう告げた直後、鞄を両手に抱えてぴょこんと立ち上がり、見た目に似合わない敏捷な動きでドアに駆け寄ると、ちょうど開いたドアを抜けてホームに出ていった。一連の素早い動きは映像の早送りを見ているようで、私たちは少々呆気に取られながら、おじさんが軽やかにホームを移動する姿を目で追った。今にも、ドロン!と白い煙だけを残して消えるんじゃないかと半ば信じながら。

 おじさんは消えないままどんどん小さくなってゆく。
 葉っぱもくっついたままだ……たぶん。

 電車のドアが閉まり、ゆっくり加速を始めると、私たちの視界からおじさんの姿は消えた。彼が座っていたところの座席はぽっかり空いたままだ。
「くっふ、ぶはっ」
 唐突に、吊り革に捕まっていた若い男が勢いよく吹き出した。連れの男が驚いて「おい」と声をかけるものの、彼の我慢の限界なのか笑いはどうにも収まらない。
「ふっぐははははひっははははっ、やばっ何なん太鼓ってさあーくふっ、たぬきだけに腹太鼓ってぇ、ふふあはははやべえツボ入ったっ、くふひひひ……」
 彼は吊り革にしがみつき、身をよじりながら笑っている。私の向かいの女子大生が堪えきれずに噴き出した。
「ぶふふっ、ふはははすみ、ふははっすみませあはははは」
 先ほど奥へと引っ込んで消えたはずの笑いが、腹のそこからすごい勢いで昇ってきて口から溢れた。
「あっはっはっは!やだもうちょっとーあはははははは」
 内心焦って抑えようとすればするほど、笑いはなかから溢れてきて、お腹の痙攣を止められない。そしておじさんを中心とした半径1.5mの人たちに、笑いは波紋のように広がった。
「あっはっはっはははっはは」
「ふふっくくふふはははは」
「ぐあははははふいひひひ」
 車内の人たちが驚いてこちらを見ているのを目の端で捉えながらも、私たちの笑いの発作は収まらない。
 窓の外に目的の駅のホームが現れ、スピードを緩めながら横に流れてゆく。


 ホームに降り立ったとき、私とその周りの人たちは皆、奇妙なニコニコ顔だったので、反対側のホームで列車を待っていた人々は怪訝な顔をしていた。
 私は、ホームから改札口へ登る階段に向かってゾロゾロと歩く人の流れに逆らうように、その場に留まっていた。

 同じ電車から降りた人々がホームからいなくなったあと、閑散としたホームに立って、空を見上げた。久しぶりに思いきり笑ったせいだろうか、なんだか心が軽くなった気がする。そういえば最後に声を上げて笑ったのいつだっけ。そうだった、最近、わたし笑えてなかった。
 いつの間にか雨が上がり、雲は多いもののあたりは明るくなっている。

 上着のポケットに入れたスマホの通知音が鳴った。
 取り出してLINEの表示をタップする。息子からだ。

「おにぎり」

 と、ひとこと。続いて、

「ありがとう」

……ポン、と浮かんだ文字を見つめる。久しぶりだ。不登校になる前は、放課後に出かけるときなどLINEがあったけれど。どう返そうか迷って『どういたしまして!』のスタンプを送った。

 短いやりとり。

 でも、不登校になってはじめての、彼からの呼びかけだった。自然と口もとに微笑みが浮かんだ。

──まあ、なるようになるさ。

 なんだか、じっとり湿った心が、久しぶりに干した布団みたいに幾らか軽くなって、お日様の匂いを嗅いだようなかんじがする。

 頭上の雲の切れ目が白く輝いて、辺りがいっそう明るくなった。
 この空の下のどこかで軽やかに歩いているたぬきおじさんと、その頭にくっついた紅い葉っぱを思い描き、彼がたぬきでも人でも、なにか良いことが起こりますように、と。そう祈った。

 最後に誰かのために祈ったのは、いつだったろうか。

 私は、ホームから改札に上がる階段へ向かって、一歩を踏み出した。


(完)

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