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Something four【BL短編小説】

 朝、起きてカーテンを開ける。
 人生のターニングポイントは、たぶん、ここだった。

【side-T】
「テスト返すぞー」
 数学の笹木(ささき)先生は左手で眼鏡をずり上げつつ、右手に答案を持っておれ達の席の間を回り、答案をひとりひとりの机に置いてゆく。
「やべー」「っし赤点免れた」男子高校のクラスはざわつく。文化祭も秋の中間試験も終わって、後は冬んなって期末までは長閑な期間だ。
 来年のこの時期は、受験でヒリヒリムードだろうけど今はまだ、わりと呑気。喫緊の課題は補習を受けずに済むよう赤点だけは避けること。うちの高校は偏差値ランキング中の上くらいで、極端にできない奴はいない。

 おれは今朝の、笹木先生の姿を思い出した。昨日の夜に干した体操着が、乾いているかどうか気になって、朝、起きてすぐに窓を開けてベランダに出たのだ。体操着は少し湿っているけど、どうにか着れそうだった。ほっとした次の瞬間、ベランダの前の道を先生が歩いてて目が合い、おれはびっくりした。「え!?」
 向こうも驚いたみたいで、見るからに狼狽して目を逸らすと足早に歩いて行った。おれはその姿を目で追い、今の笹木だよな?ここ通勤ルート?入学して結構経つのに知らなかったなーと欠伸混じりに考えながら、体操着を抱えて部屋に戻り、制服に着替えた。
 今の高校は自宅から近くて、十分も歩けば着く。この学校を選んだのも家から近いからだった。朝起きるのはいつもギリギリだけど遅刻したことはない。

「海!かーいー。かいかいか……いか」
 下駄箱のところで同クラの岡元に呼びかけられた。おれは顔をしかめた。
「それやめろって」
「お前、中学ん時のあだ名、カイトって、イカからか! イカってカイトだもんね」
「カイトじゃない、滝田様とお呼び」
「たきたきたきた……来た!」
「アタマ悪い会話だなー」
 おれ達の教室は一階だ。廊下を曲がると笹木先生にぶつかりそうになった。いつものように先生はくたびれた感じの背広姿で、ポケットには色んなペンが雑に詰め込まれ、なぜか青い洗濯バサミがひとつ挟まっている。ちなみに数学の教師だ。
「うわびっくり、はよーござあます」
「……はよ」
 岡元の賑やかな挨拶にテンション低く返すと、笹木先生は俯いたまま、逃げるように廊下を歩いて準備室に入っていった。先生はうちのクラス担任で、聞き取り難いボソボソした喋りも、朝は特にテンションが低いのもいつも通りだけど、おれは数秒間、彼が入っていった準備室のドアを見つめていた。今朝の事に全く触れないのも逆に変じゃね?おれの胸に、とある疑念が湧く。
「いつも朝はご機嫌斜めだけど、今日は垂直の日かね」
 岡元は肩をすくめると教室に入って行った。おれもその後を追った。


 先生が採点済みの答案を机に置いた時、おれはわざとその手に指を触れてみた。先生は顔をこわばらせて俺の顔を一瞥し、素早く手を引っ込めた。その間、約1秒。そのまま答案を配り続ける先生の後ろ姿を目で追った。 
 配り終えると黒板に向かい、先生はテスト問題の解説を始めた。生徒達は気が抜けたようにノートを取り始める。おれもいつもなら、答案と黒板しか見ていないところだけど、今日は意識して笹木先生の顔をガン見してみた。
 痩せてて短髪で黒縁眼鏡。これに無精髭と下駄が加われば、今読んでる漫画のキャラクターに似てる。主人公に助言するクールな参謀キャラ。
 先生は不自然なほど、おれの顔を見なかった。


【side-S】
二週間経った放課後。突然、準備室のドアを開けて入って来た滝田の姿に、俺の心臓はドキンと鳴った。滝田はにこやかに
「せーんせ、今日の授業で分かんないところがあるんすけどお」
 と、近づいて来る。俺はなるべく、彼と目を合わせないようにしながら「職員室に行こう。そこで聞くから」と言った。どうか不機嫌そうに見えますように……願いも虚しく彼が距離をぐいぐい詰めてくるので、俺は思わず、一歩後ろに下がった。足が机にぶつかる音がした。
「数学の前に、もうひとつ質問があって」
 滝田は至近距離まで近づいてきて、俺の目を覗き込んだ。うっ、ち、近い。視界を占める彼の顔から目が離せなくなる。ヤバ、やばい心臓が……。
「先生、この一週間、毎朝うちの前を通ってますよねー。もしかして前からずっと?駅から高校行くなら、普通はみんな大通りを通るのに、なんでわざわざ、うちの前通って行くんですか?」
 やかましく鳴っていた心臓がひときわ大きく跳ね、一瞬止まったかと俺は錯覚する。思わず片手で胸を押さえながら
「言いがかりだ」
「証拠もありますう。ベランダに防犯カメラ仕掛けておいたんで。映像がね。うちの前通る時、いつも二階のベランダの方を二、三秒見ますよね……あそこ、おれの部屋って知っ」
「だああっ!」
 俺はプチパニックに陥り、口から勢いよく言葉が溢れ出て暴走を始めた。
「気のせい! おお前そそれは自意識過剰ってもんだ、お、俺たちは男同士なんだぞ、お・と・こっ! アイだのコイだのそんな話になるわけないだろお〜っ」
 しまいには声が裏返って、俺はむせた。滝田はドン引きしたのか、目を丸くして立ち尽くしている。無理もない、俺も自分で自分に引いてる。なに年甲斐もなく喚き散らしてんだ。俺は息を整えて、はああぁ〜と大きなため息ついた。落ち着け俺、落ち着け。
「……大きな声を出して悪かった。変なこと言うから。お前の家の前を通っていたことは謝る。すまない。もうしない」
「いや、ただ、反応が見たかっただけですけど……アイとかコイとか、そういう話なの?」
 俺は頭を抱えそうになり、すんでの所で思い留まる。
「違うってば、そんな訳ないそんな訳ないんだ、もおいいからさー離れろ、近い近いちかいっ」
 俺は彼の肩に手を置くと、グイッと向こう側に押しやった。滝田は数歩、後ろに下がると「何か先生キャラ違うね、いつもと」と笑った。俺は彼の肩から手を離すと、両手で顔を覆った。
「だろうね……我ながらキモい。キモ過ぎ」
「キモいとは思わないけど。先生ってマジで面白い。ねえ、LINE教えてよ」
「な、なん、何で」
「えーだって面白いから」
 滝田はまた笑った。ああ、こんなに近くで、二人きりでいる時に、そんな笑顔を見せないでくれ、頼むから。俺は両手を下にずらして、彼の眩しい笑顔を眺めた。やっぱり可愛い。やっぱり好きだ。やっぱり……俺はキモい。
キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい




【side-T】
 その日を境に、先生はおれの家の前を通らなくなったけど、その代わり俺たちはLINEで連絡を取り合うようになった。大体はおれから一方的に送りつける感じだけど。「いま何やってんの?」とか「先生って歳いくつ?」みたいに。先生のレスは短いけど、何か用事がない限りは早かった。「なにも」とか「37」とか。そっけないけど、らしいっちゃらしいかな、と思った。
 先生は普段は、穏やかで冷静で、声を荒げることも大声で怒鳴ることもない。生徒に注意する時も、のんびりした調子で「おーい、廊下〜走るなよお〜」って呼びかけるだけ。そこそこ協調性はあるけど、必要のないおしゃべりはあまりしないタイプ。喜怒哀楽が薄いというか、植物ぽいというか。

 二人で話すのは大体、教科準備室で、ここにはおれらの学年が使う教材が雑然と置かれている。大きな地図や地球儀、図鑑や標本や模型、大きな三角定規や分度器、コンパスの模型などなど。奥に教職員の机がひとつあって、数学、生物、古典、日本史と世界史の先生が共同で使っているらしかった。
 それぞれの引き出しには「小林」「佐藤(た)」などの名前テープが貼られている。笹木先生の引き出しはキャビネットの一番下だ。一度こっそり開けてみようとしたけど、鍵がかかっていた。

 おれといる時の先生は、普段の先生と全然違う。いつも何やらテンパっていて、近寄ると赤くなったり青くなったり、キョドったりどもったり。こっちがちょっと強引な態度をとるだけで涙目。こんな大人は初めてで、おれはこの新しい遊びに夢中になった。
 先生はどうも、おれのことが好きらしい。男がすきなひとなんだろう。食堂とか校庭とか、ふとした瞬間に先生がおれのことを見てるのに気づくことが増えたし、すれ違いざまにさりげなく触ると飛び上がったり固まったりする。自分でも意外だけど嫌悪感はなかった。相手がおっさんでも悪い気はしない、てゆーか面白すぎる。
 それに……スリルがある。教師と生徒がその枠を超えて親しくなるっていうのは“まずいこと”だろうし。おれがちょっと事実に色をつけてバラせば、社会的に先生の息の根を止めることができるだろう。誰かの──とりわけ大人の──生殺与奪権を握ることは、すごく気分がいいことだ、と初めて知った。


「はい、じゃあこれ。問二、前に出て解いてみて。えーと、昨日は斉藤だったよな、じゃあ佐野。やってみて」
「はい」
 佐野は前に進み出て、黒板に描かれた問題を見つめた。チョークを手に取り、考えながら数式を書き進めてゆく。笹木先生は斜め後ろで腕組みをし、それを眺めた。
「うん、考え方は合ってる。ただここは、こう書いた方がモアベターだ」
 先生は数式の一部を消して、そこに書き込んだ。
「ここがこうなると、どうなっていくか。続きは……えー滝田」
「はい」
 おれは佐野と入れ替わりで前に出て、いくつか式を書き足し、答えを書いた。先生は口に手を当てて少し考え
「うん、なるほど。いいと思う、思うけれども……少し足りない。足りないとこ解る?」
「えー……」
「じゃあ、次は太刀川、解る?」
「はーい」
 太刀川はささっと進み出ると、おれが書いた部分を消して、答えを書き直した。おれは席に戻りながらそれを見る。先生は珍しく笑顔になった。
「パーフェクト、素晴らしい」
 笹木の「パーフェクト」は最上級の褒め言葉だ。笹木は顔に笑顔の名残を残して、軽く太刀川とハイタッチをした。太刀川は嬉しそうな顔で席に戻った。おれはノートを見つめ、胸の中に湧き出してきたムカムカした気持ちを顔に出すまいとした。次の問いを黒板に書いている笹木の背中を睨みつける。何だよさっきの顔は、ヘラヘラしやがって。


【side-S】
『話したいんだけど』
 滝田からのLINEだ。俺は『四時から三十分なら。準備室』と返した。すぐ既読がつく。
 俺はスマホをポケットにしまうと、気持ちを悟られまいと口元を引き締めた。あーあ、おっさんが年甲斐もなくウキウキしちゃって。自分で自分にツッコむ。分かってますよそんなことは、でもしょうがない。嬉しいもんは嬉しい。
 滝田とLINEでやり取りするようになって、俺はそれまでの自分の毎日がいかに無味乾燥だったか思い知らされた。かつて女性と結婚していたことだってある。でも、気がつくと相手の姿を目で追いかけていたり、目があうと途端に心臓が跳ねたり、相手の腕に自分の手が僅かに掠っただけで、ドキドキしすぎて気を鎮めるためにトイレでしばらく過ごしたり……こんな心の動き、こんな自分は初めてだった。我ながらキモい。でも、遠くから見てるだけだった頃に戻りたいかと聞かれたら、いやだと答えるだろう。

 自覚がなかっただけで、多分、俺はバイセクシャルなんだと思う。自分は性的なこととか恋愛にあまり興味が持てない、淡白な性質なんだと思い込んでいた。相手に告白されて付き合って、一応セックスもして結婚してから、一年も経たないうちに妻に興味が持てなくなってしまった。
 悪いのは100%俺の方だ。彼女は良い友人で良い妻だった。俺にはもったいないほどの。恋人同士だった頃は周りに羨ましがられた。俺はそれに対して嬉しい気持ちもありながら、胸の内に燻る違和感を持て余し続けた。結婚までしてから気づくなんて、間抜けにも程がある。
 それに向き合わずに結婚生活を続けることも出来たけど、俺にはどうしても、彼女と自分の未来が思い描けなかった。それに、彼女は子供を欲しがっていた。俺が“なんとなく”手元に置いて、彼女の貴重な時間を浪費するわけにはいかない。
 沢山の話し合いと沈黙と涙を経て離婚し、あんな風に誰かを傷つけることになる位なら、もう人を好きになったりしないと心に誓った。

 私立の男子校に職を得てからも、その決意は変わらなかった。俺は淡々と毎日の仕事をこなし、毎年入れ替わる生徒や保護者とそこそこ良い関係を築くテクニックも身につけ、小さなトラブルは時々起こるものの、全体としては波風の立たない、穏やかな凪のような時期を過ごしていた。
 入学してきた滝田に一目惚れするまでは。

【side-T】
 準備室に入るとパイプ椅子を引き寄せて座り込み、おれは笹木に詰め寄った。
「今日、授業の時、おれにやらせた問題、あの解き方の、他の問題をやりたいんですけど」
 笹木は驚いて
「え、何。勉強を教えてほしいってこと?珍しい。けど、それなら職員室でも」
「ここが良いんだよ」
 先生は首を傾げならも、ノートを開いて机に置き、ポケットから万年筆を取り出して問いを書きつけた。おれはそれを覗き込み、机の上に放置してあるシャープペンシルで数式を解いた。解答まで終わると、先生の方へノートを押しやる。笹木は顎を撫でながら言った。
「うん、なるほど」
「なるほどって?」
 おれが不機嫌なのに気がつき、先生は少し怯えた目つきになる。
「え〜っ、と。この部分は、考え方としてはこうで……」
 先生が脇の余白に書いた数式を見て、おれは問いをやり直した。
「おっ。そうそう、正解」
 先生はホッとしたように微笑んだ。おれはちょっと気分が治ったけど、まだ足りない。
「パーフェクトじゃないの?」
 先生はハッとしてこちらを見た。
「もちろんパーフェクト!」
 先生は軽く手を上げ、おれはそこに、ぱしんと手の平を打ち付ける。
「もしかしてこれがやりたかった? 可愛いとこあるじゃん」
 先生は笑った。その顔を見ると嬉しくなって、胸の奥がギュッとなった。先生ってこんな顔で笑うひとだったっけ。なんか……可愛いかも。そこで自分自身にギョッとする。は?いやいやいや、こんなオッサンに可愛いとかないわ、それはない。
……ないはず、なんだけど。
 今度はおれから手を上げた。先生は不思議そうな顔でそこを軽く叩いた。その時、彼の手を捕まえて両手でぎゅっと握った。途端に笹木は真っ赤になって狼狽え、手を離そうとする。
「は、はな、離せよ」
 おれは意地になって、手をしっかり握りしめた。笹木は泣きそうに顔を歪ませる。手を離すと先生は、椅子ごと勢いよく後ろに下がった。後ろの棚にぶつかるガツン!という音と共に、埃が舞った。

 2メートルの距離を挟んで、おれと先生はその場で見つめ合った。
「なんなの。どうした」
「先生さ、俺のこと好きなんだよね」
 笹木はガタ、とのけぞった。構わずにおれは続けた。「これだけ毎日、ジロジロ見られてれば分かるって。あのさ、いーよおれ、付き合っても」
「!? なに、っ馬鹿なことっ……」笹木は胸を押さえると前屈みになった。「……ど、動悸が……ちょ、気持ち悪……」
 心配になって、近寄ろうとしたけど、先生は俯いたまま手を上げておれを止めた。笹木は、すうはあすうはあ、と大きな口を開けて何度か深呼吸をし、盛大にため息を吐くと、顔を上げた。渋い表情。
「おまえさぁ、簡単にいうなって、そんなこと」
「違法だっていうんだろ、知ってるよ。エッチしなきゃいいんじゃない」
「それだけじゃない。大人と子供が恋愛とか、ダメなの」
「何でだよ!?」
「大人は子供を守らないと。欲望の対象にしちゃいけないんだ、絶対」
「そんなの建前だろ」
「俺は教師だ、建前だろうと、そこを外れる気はないっ」
 初めて聞く先生の厳しい声におれはびっくりした。準備室の中に沈黙が立ち込めた。
「…………帰る」
 おれは椅子から立ち上がって、準備室を出た。カバンを取りに教室に向かう。
 先生は追って来なかった。


【side-S】
 滝田が出て行った後も、俺はしばらくの間、その場から動けなかった。
(いーよおれ、付き合っても)
(いーよおれ、付き合っても)
(いーよおれ、付き合っても)……

……あまりの出来事に脳がフリーズして、ただひたすら、あの台詞をリフレインする。

 頭は霧の中をぐるぐる彷徨っていても、身体は動くものらしい。俺は無意識のうちに職員室に戻って、周りの教師達と言葉を交わし、校門を出て、家路についていたようで、我に帰ったのは、自宅アパートで風呂に入っている時だった。腹がぐうう、と鳴っている。空腹の筈なのに、胸が一杯で何も食べれる気がしない。
 この歳になって初恋が叶うとか、そんな奇跡があるのか。固まりかけた俺の人生に奇跡が起こるとは、まだ信じられない。
 俺は強いて、思考しようともがく。どうしようどうしよう、いや、どうしようじゃない。犯罪。犯罪であるからして。
(エッチしなきゃいいんじゃない)
 そういう問題じゃない、と思う。教師である限り、いやそうでなくても、大人には超えちゃいけないラインがある……。
(そんなの建前だろ)

 どんなに否定したところで、心の奥では。
 ありえないけど。認めたくないけど。
 嬉しかったんだ。

──本気で今すぐ死んでもいいほど嬉しいんだ俺は。


 しかし、風呂から上がって空きっ腹に缶ビールを流し込むと、冷たさと刺激で胃が縮み、舞い上がった気分がいくらかクールダウンする。そして自分の言った台詞を思い出し、気分は天国から一転、地獄にズドンと落ちた。
(俺は教師だ、建前だろうと、そこを外れる気はないっ)

……これ以上、滝田には近づいちゃいけない。俺は弁えなきゃいけない。

 居間の座卓の脇に座ると、スマホを取り上げた。LINEを起ち上げ、滝田のアイコンをタップした。そこには『話したいんだけど』『四時から三十分なら。準備室』の履歴が残っている。
 何か打ち込もうとして、どう言えばいいのか分からず、俺は画面を見つめたままスマホを座卓に置いた。その途端、スマホが鳴り出した。滝田からのLINE電話。スマホを取り上げる手が震えた。
「……もしもし」
「せんせー、今おれさあ、先生の家、てか、ドアの前にいんだけど」
「は!? な、なんっ」
「開けてぇ」
 ドンドンドン、とドアを叩く音がする。俺は慌てふためき、転びそうになりながら玄関に駆け寄ると、ドアを開けた。
 アパートの廊下に、制服姿の滝田が立っていた。


【side-T】
 おれは鞄を座卓の側に置くと腰を下ろして、買ってきた菓子パンとペットボトルを鞄から出した。座卓の上には缶ビールと本が数冊、ノートパソコン、スマホ。壁際は難しそうな本がいっぱいの本棚。男の一人暮らしの割には片付いている、気がする。向かいに座っている笹木先生を眺めた。
 スウェットの上下を着て、眼鏡を外している姿にいつもの教師感は無くて、なかなか新鮮だ。先生はまだ混乱している様子で言った。
「なんでここが分かった」
「先生の後をつけてきた。面白かったよ、ドラマみたいで」
「……用事は?」
「話したかった」
「電話とか、LINEとか」
「顔を見て話したかったんだよね」
 先生は片手で顔を覆った。「困るよ、こんな」先生は一気にビールの缶をあおり、缶を卓に置いた。手が震えている。おれの中にじわりと、意地の悪い気持ちが込み上げてくる。
「教師の自宅に生徒がいるって分かったら問題だよね」
 先生は苦しそうな顔になり、立ち上がってキッチンに行くと、またビールを持って戻って来た。座ると同時に缶を開け、喉を鳴らして飲むと缶を置く。
「飲み過ぎじゃない?」
「飲まずにいられない……遅くならないうちに帰った方がいい」
「友達とカラオケ行って飯食って帰る、って親には言ってあるから平気」
「俺のことで、親に嘘をついて欲しくないんだよ。それ食ったら帰れ」
「先生は、おれと居て嬉しくないの?」
 先生は顔を上げ、じいっとおれの顔を見た。あまりにも正面からマジマジと見つめられて、何だか気恥ずかしくなる。
「……嬉しい」ぼそりと先生は言った。「お前が入学して来た日。体育館の裏手に古い桜の木があるだろ?花びらが散ってて。その中をお前が歩いて来た時さ……ドラマとかであるじゃん。ヒロイン登場の場面で、周りがキラキラしててスローモーションに見えるってやつ。ホントそう見えた。マジであるんだこんなことって思った。三十年以上生きてきて、初めて体験した……」
 笹木はまたビールをあおった。
「それからは……毎日、学校ではお前の姿を探して、家に帰ると教師失格だって落ち込んで、わいせつの罪で教師が捕まるニュース見るたび胃が痛んで、逮捕されて保護者とか先生たちに責められる夢見てうなされて……二年になったらお前のクラス担任になって、もう俺は、もう。生きた心地がしなかった。色んな意味で」
「…………」
 笹木は眉間に深い皺を寄せて、卓の上に肘をついて顎を支えた。視線は卓の上を通り過ぎて、どこか遠くを見つめている。
「伝えるつもりなかったんだ……この後、何十年生きようと、これ以上、誰かを好きになることは絶対ない。俺は墓まで持ってくつもりだった。この世で会えただけで充分なんだから。友達と笑ってる顔とか勉強してる顔とか三年間、見守って、卒業の時に『おめでとう』って顔を見て言えればそれで良かった。そのはずだったのに……お前がこんな近くに来るからさ……欲が出てきちゃうじゃんか。
 俺は社会人になってからずっと教師だ。他人から見たら大したことなくても、それにプライド持ってんだ。頼むよ、俺のことはもう……忘れてくれ」
 笹木先生は、辛そうな顔のまま目を閉じた。
 おれは何も言えずにその場でじっとしていた。生まれて初めて大告白されて、胸が締めつけられるように苦しくなった。笹木の顔がぼやける。滲んだ涙を拭った。

 ここまで誰かに想われることがこの先あるかな。分かんない分かんないけど……おれの心に灯された熱い何かは。息が苦しくなるくらい胸のなかで吹き荒れる何かは。
 ──確かに存在する。ここに。

 静かに笹木に近づいて、彼の顔に自分の顔を寄せた。彼がうっすら目を開けるのと、おれが彼の唇に自分のを重ねるのとが同時に起こった。ほんの僅か触れる程度だったけど、顔から火が出るかと思った。離れると、笹木の目が飛び出しそうになってて、笑いが込み上げた。
「これが最初で最後にする……」
 おれの囁きに、笹木は泣きそうな顔になった。おれは言葉を続けた。
「……未成年の間は。続きは二十歳過ぎてからってことで。あーあ、今どきキスぐらい中学生でもしてるっつーに……けど、しょうがない。譲歩してやるよ」
「……な……」
「今は付き合わなくてもいい。けどさ、おれがアンタのこと勝手に好きでいる分には問題ないよね?」
「…………」
 おれは鞄にパンとペットボトルを仕舞い、立ち上がると玄関まで歩いた。恥ずかしくて早く立ち去りたい気持ちと、このまま側に居続けたい気持ちが胸の中でせめぎ合う。ドアの取手に手をかけて振り返ると、まだ笹木先生は彫像のように固まったままだ。
「一応、ファーストキスだから」
 言い置いて部屋を出た。アパートの階段を降りて駅へと向かう。空に、大きな月が見えた。こんなに大きく、心に染み入るように輝く月を見たのは初めてだと思った。

 おれは、この月を一生、忘れない。


【Seven years later】

 一昨日、卒業式を終えて、あと数日で春休み。今日の授業は既に終了していて、辺りに人影は無い。
 教職員に最後の挨拶も済ませた。しばらく日本を離れる為の諸々の作業がまだ終わっていなかったので、心苦しかったけど、送別会の申し出はお断りさせてもらった。自宅の家具は処分して、少ない荷物は既に送った。あとは今日、帰ったら最後の掃除をするつもりだ。
 高校の敷地を出る前に、俺は体育館の裏にまわった。大きな桜の木が雪のように花弁を散らしている。地面は花弁に白く覆われて、雪景色のようだ。事実かどうか不明だけれど、この桜は、ここに校舎ができる前から在るらしい。これを見れなくなることは、残念だ。

 風が吹いて、花弁を盛大に散らした。枝間から降り注ぐ陽の光に照らされて、宙に舞う花弁はチラチラ輝く。そこをゆっくり歩いてくる若い男の姿を見て、俺は驚きの声を上げた。
「えっ、戻るの来週じゃなかった?」
 青年は俺の前で立ち止まった。
「ちょうど仕事の都合がついて、早めに戻って来た。手伝うこと色々あるかと思ってさ」
「またあーそういうとこだよ。俺にも予定があるんだって。行動する前に連絡ぐらい」
「先生こそ、久々の再会だってのにお小言かよ。もっとないの、こうサビシカッターとかアイタカッターとかさあ」
「もう先生じゃない……おかえり」
「ただいま」
 海は微笑み、桜に覆われた枝を見上げた。彼は今、船舶機関士として大きな船に乗り込み、機関制御室で管理や整備をしながら、世界の海を飛びまわっている。いや船なんだから、泳ぎまわっていると言うべきか。

「なんか、また逞しくなってない?」
 俺は彼の身体つきをしげしげと眺めた。既に俺より背が高く、陽に焼けた筋肉が引き締まり、盛り上がっている。かつての色白の少年はいまや、爽やかで精悍な青年になっていた。海は腕を広げた。
「姫抱っこできるよ。やろっか?」
「頼むからヤメテ」
 海は笑って言った。「けど、丁度よかった。ここでしよう」
「へっ?」
「Something four」
 海は見事な英語で喋りながら、自分の腕時計を外して、俺の右手を取り、手首に巻いた。「something borrowed(何か借りたもの)」海は呟き、俺は訳もわからず、それを見守る。
 次に彼は、俺のポケットに挟まっている洗濯バサミを取り上げると、目の前でカチカチと動かして「something blue(何か青いもの)」と言い、それを戻すと、俺の肩についた花弁をつまみ上げて「something old(何か古いもの)」と言った。俺たちは一面の桜を見上げた。
 彼の顔に目を戻すと、いつの間に取り出したのか、海は指輪を掲げて見せ「something new(何か新しいもの)」と囁き、俺の左手を持ち上げると、左指に嵌めた。そして手を握った。

 滝田 海は指輪を見つめた。
「イギリス人の同僚が教えてくれた。幸せのおまじないだって。おれのパートナーの名前が『海那人(みなと)』……海のひとって意味で、読みの音は『港(みなと)』と同じだって話したらさ、海の男のパートナーにぴったりじゃん、マジ運命だな! って言ってた。おれもそう思う」
 海は、ふっははと照れ臭そうに笑うと、俺の顔を見て呆れた声を上げた。
「泣いてんの!? もおお〜泣き過ぎだから海那人は」
「……年寄りだから……涙腺が……」
「まだ年寄りってトシでもないじゃん!」
 海は俺を笑いながら抱きしめた。力が強すぎて息が詰まる。それとも幸せすぎるせいか。早春の光に眩くかがやき、降りしきる春の雪……。
 この桜を一生、忘れない。

 まもなく俺は、最愛のひとと海を渡る。



(完)


⭐︎ネムキリスペクト今回のお題は「朝起きてカーテンを開ける」です⭐︎

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