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百年探しつづけた犬【#創作大賞2023】


【あらすじ】
少年ロボットが、長い眠りから目覚めたとき、目の前にいたのは、そらいろの巻き毛の子犬ロボットだった。子犬は、彼と行きたい場所があるという。
彼は子犬とともに、眠りについてから180年が経過した世界にふみ出した。
そこで見たものは、人がひとりもいない世界だった。


【本編】

「ロボットは夢を見ないんだろう?」

 以前にマスターの友だちの男の人が、僕にそういったことがある。
 そんなことはありません、と僕は答える。有機電脳がスリープモードのとき、微弱な電気は流れています。その時、記憶ライブラリの一部を再生することは時々あることです。脳が進化すればするほど、それは頻繁に起こります。

 僕のマスター、つまり持ち主で管理者のココロさんは、ロボットの有機電脳の開発者で、大学での研究と並行して、ロボット開発の企業で仕事をしている。いや、していた。
 ココロさん曰く、人間は夢を見るとき、それまでに見た記憶をフィクションもノンフィクションもごちゃ混ぜにして、パッチワークのように繋ぎ合わせたものを見るらしい。それは曖昧で辻褄が合っていないストーリーで、昔の人間は、夢の内容で未来の出来ごとがわかると考えていたそうな。
 ココロさんは電子タバコを吸って、見えない煙を吐いた。それから手元のチェス盤を見下ろして、そこに載った透明なアクリル製の駒を持ち上げて、移動させた。

「……もちろん、それは人間お得意の、根拠なき希望的観測に過ぎない。ヒトの脳は、追憶や想像はできても予知はできない。ただ、仮に予知ができるとしたら、そのとき脳はどのような挙動をして、どういう回路が作られているのか、そう考えることは面白い。私は予知は、本人が無意識で予想しているものを、脳が見せているんだと考えているけど」
 そして僕を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「ロボットの脳は、ヒトの脳に似せて作られているけど、ヒトのものとは違う。ヒトの脳の特徴は、動物的本能があらかじめインストールされていること。それはヒトの心の衝動と深く結びついていて、私たち人間の思考や行動を無意識下で支配している。この衝動のおかげで他の生き物と戦って勝ち抜いて、環境に適応して繁殖し、進化できた。けど過剰な攻撃衝動は弊害も多い……いずれ災いが自分自身に返るとわかっていても、欲望のために環境を破壊し、他者を攻撃することをやめられない。どんなに知能を高めても、どれだけ過去の過ちから学ぼうと努力しても結局、我々は、そのクソ仕様から逃れられない」
 ココロさんはまたタバコを吸って吐いて、駒をひとつ持ち上げた。そしてその駒をキングの駒にぶつけて、キングを倒した。
「けど、最初からそうでない脳があったなら。理想的なヒトのあり方を実現できるのでは?……私はずっと、そう考えていた。それに憧れて、それが見たかった。トビオ、有機電脳のポテンシャルは……」
 そこで映像は掠れて不明瞭になる。記憶ライブラリが劣化してきているのかもしれない、と思考する。スリープモードの時に脳に流れる電気は微弱で、映像はいつも途切れてぼやけてしまう。
 ああ残念だ。ココロさんの話がもっと聞きたかったのに。

 僕がマスターと過ごした時間はちょうど二十年間。そのあとは、ずっと眠りのなかにいる。
 僕には記憶ライブラリがあるから寂しくない。ココロさんといった場所、見たもの、話した内容も呼び出して再生できる。けど最近は、途切れることが多い。時間が経ちすぎているのかもしれない。
──と、不意に。遠くに青い海が見える。空も海に負けないくらいに青い。掠れがちだったココロさんの記憶とはあきらかに違って、細部まで鮮明な映像だ。僕が住んでいた街とは違う匂いがする空気。匂いだって?こんなところに僕はいったことあるかな?と、脳の片隅でぼんやり思考する。
 僕の視界にはどこまでも続く曲がりくねった白い壁が映る。陶器でできたみたいな白い壁が迷路のように入り組んだ街。僕が立っているところの白い壁の内側には、いろんな色がまぜこぜになった絵が描かれている。そのさらに内側の地面は、丸い石がたくさん敷き詰められているような舗装道路。男の人の穏やかな、柔らかく包むような声が聞こえる。
「丸いのは石じゃなくて、ガラスだよ。リサイクルガラス瓶の底が使われている。微妙に色とか大きさが違うのが綺麗で、いいでしょう。僕のマスターも、この道が気に入っていた。これと同じ発想で壁を作って、その壁で隠れ家を作れないかな、なんてよく話していた。その壁でできた部屋のなかはガラスを通過した光が混ざって、見たことがないくらい綺麗な空間になるんだ。そこで暮らしたらどんな夢を見るのか」
 僕は声の方に視線を移した。僕よりかなり背が高くて、薄い黄色の髪の毛と水色の瞳の男の人だ。頬にオレンジ色の絵の具がついている。見覚えがないはずなのに、どこかで見たことがあるような顔。
 男の人は、左手に持ったパレットの絵の具を、右手の絵筆でかき混ぜて、壁に色を載せる。青と水色と緑色と、いろんな色が混じったところに、オレンジと黄色の魚の絵を描いているところ。魚には飛び魚みたいに、小さな翼がついている。
「いつでも好きな場所に飛んでいけるようにね。この魚、どう?おいしそうでしょ」と男の人は目線を下げて、足元にいる背の低い誰かに話しかける。女の子のキンとくっきりした声が応える。
「ぜんぜんそう思わないけど?魚なんて一度も食べたことないし。猫だから魚が好きって、単なる人間の思い込みだから。てゆうかロボットが何かを美味しそうなんて思うわけないじゃない。エネルギーパックがあれば充分なんだからさあ」
 足元の黒猫は、尻尾を立てて顎をあげ、ふんと鼻で笑った。男の人は苦笑した。
「それは失礼しました」
「どういたしまして。いいよ、慣れてるもんそういうの。人間がいっぱいいた頃は、すぐに触ろうとしてくる人が後を絶たなくてうんざりしてたし。人間って猫は撫でられるのが好きって思い込んでいるんだよね。自分は知らない人に勝手に触られるのは不快って思っているくせに」
「触りたいんだよ」僕は思わず口を出した。「だって君の毛並み、柔らかくて触ると気持ちいいから」
 猫は鮮やかな緑色の目で、僕をきっと見た。「わたしは嫌なの。わたしを触っていいのはマスターだけなの」そしてちょっとの間うつむくと「……あと、マスターのママとパパと。病院のドクターと看護婦さんたちと、病室の子供たち。は、たまに触っていいけど、でもマスターからお願いされたから、仕方なく、だもん」猫の声はだんだん小さくなった。そして尻尾をゆるく左右にふってガラス瓶の道を歩いていった。
 僕と男の人はその後ろ姿を見送った。男の人はまた壁に向き直って、絵筆でパレットの絵の具を混ぜながら「あのこは寂しいんだね」といった。それから壁に色を塗りながら、話を続けた。
「僕らは寂しさからは逃れられないんだ、永遠に。だって忘れることができないから……いいことも、そうでないことも。どんな小さな些細なことも。記憶ライブラリで再生すると、すぐ目の前にいるみたいに見えるのに、触れ合った感触は再生できない。手を伸ばしても二度と触れることができない。時々それが……」男の人は目を伏せてつぶやいた。「……ひどく、つらい」
 僕は、なんとなく黙って海を見つめた。海鳥が三羽、海面のすぐ上を鳴き交わしながら飛んでいる。仲が良さそうだし親子かな、と僕は思考した。

 空が青い。海の青とは違う青さ。空色。


 僕はまばたきした。
 薄暗くてがらんとした広い室内にいる。ずっと奥の方に白い光と幾何学模様が見える。
 僕はまた、まばたきして、目線を自分の目の前に移動させた。
 空色のぼやけた塊が見える。それには目がふたつあって、たぶん僕に向かって言葉を発した。
「こんにちは」
 よく見ると、僕の顔のすぐそばに透明な壁がある。その向こうに、空色の小さな巻き毛の塊がある。細部が不明瞭で光量が少ないと感じる。僕の目を構成するレンズ機能は自動的に、壁の向こうの象に焦点をあわせて微調整される。細部が鮮明になった映像を、知識ライブラリで照合する……『犬』。

 空色の巻き毛の中に半ば埋もれた焦茶色の眼が見えた。丸くて艶々と光るその目は僕の目を見つめる。僕も見つめ返し、口を開いて発声してみる。
「こんにちは」
 巻き毛の塊は後ろにくっついた突起をちょこちょこ動かして、その場でぴょんと小さく跳ねた。
「良かった。起動した。君にはわたしが見える?どう見える?」
 僕は答えた。
「犬の姿をしている。犬種はトイプードル。色はセルリアンブルー」
「そこから出てこれる?」
 僕は周りを見回した。僕の身体は、透明なチューブ状のアクリルケースの中に閉じ込められていて、ケースは身体がギリギリ入る程度の広さで、ほとんど身動きできない。身じろぎすると小さく作動音が響いた。軽い衝撃があり、透明な壁が床からせり上がって、下から空間が現れた。空間はどんどん広がり、僕の身体はすっかりケースの外にむき出しになった。
 アクリルケースは天井の中に消えてゆき、腰にはまっていたエネルギーチャージのプラグが外れて床に落ちた。固定から解放された僕は、慎重にいっぽ、前にふみ出す。久しぶりに足を動かしたせいか、曲げた時に少しだけぎしぎし音がして、関節の動きがぎこちない気がする。トイプードルが見守っている横を通り過ぎて、僕はそのままゆっくり歩行した。六歩歩いたところで立ち止まると、あたりを見回した。

 僕がいるのは、薄暗くて広いホールのような部屋だった。部屋のずっと先、突き当たりは床から天井まで窓になっていて、幾何学模様の格子の向こうから光が差し込んでいる。ツルツルの床と壁がずっと続いていて家具はない。壁際には、僕が入っていたのと同じようなチューブケースが一定間隔で並び、その中には一体ずつロボットが収められている。チューブひとつひとつの前に小さなプレートが貼り付いていて、メーカーと製造番号と販売期間、個体のおおまかな特徴が記載されている。保管というよりは、展示場所のようだ。

 僕は自分のなかのGPSを作動させ、この場所の位置情報を取得しようとして失敗する。記憶ライブラリを参照し、場所を推測してみる。
「ここは、博物館?」
 僕は問いを口に出してから、ネモフィラの方を振り返った。犬は軽やかに走って僕の横に並ぶと返事をした。
「そう。ネオトーキョー歴史博物館。歴代ロボット展示フロア」
 僕はチューブのひとつに近づき、ケースの表面に手を触れてみた。しばらく待っても自動音声ガイダンスは始まらなかった。
「いまは休館中なのかな」
 僕の声がフロアに反響する。僕と犬の他に、動いているものはない。犬は答えた。
「休館して今年で百年目になるね。あの窓から外を見てごらん。君が知ってる光景とは、少し違ってると思う」
 僕は窓に向かって歩き出し、空色の犬は飛び跳ねるように走って先に窓の所に着いた。窓が近づくにつれ、自然光がつよくなって周囲が明さを増してゆく。僕は窓のすぐそばまで近づいて、のぞき込んだ。白っぽい光の中に滲んでいた外の風景が、くっきりと浮かび上がってきた。

 外の風景は、記憶にあるよりも植物が生い茂り、舗装道路は厚く積もった落ち葉と土に半ば覆われている。博物館前のレンガ敷の広場は酷くひび割れて、雑草がぼうぼうと茂って原っぱの様だ。動くものは風に揺れる木々の葉や草むらだけで、人も車も姿が見えない。
 広場の端に掃除ロボットらしき姿も見えるが、損傷が酷く、稼働を止めて随分経っているんだなと分かる。
 その時、大きな生きものが道を移動しているのが見えた。知識ライブラリと照合する……『鹿』。
 空色の犬は、口を開かずに話し始めた。
「君がこの博物館に収められてから、百八十年経っている。わたしは犬型愛玩用ロボット。D_joan02857b。マスターには『ネモフィラ』と呼ばれていた。だから君にもそう呼んで欲しい」
 ネモフィラは、僕の前を歩きながら時々振り返り、そう言った。僕は彼について歩きながら尋ねた。
「了解。ネモフィラ。僕を起こしたのは君か?」
「そう。目的、というか、君にお願いしたいことがあって」
「お願いは何?」
 ネモフィラは立ち止まって僕の顔を見上げた。
「わたしと一緒に、ある場所に行き、やってほしい仕事があるんだ」


 ネモフィラから必要な情報をダウンロードし終わった処で、僕は、空色の巻毛に覆われた垂れ耳の下から端子を引き抜いて、コードを巻き取り、首の後ろに収納した。
「君の足なら、ゆっくり歩いて二日もあれば着くよね。ただ、以前に比べると道に障害物が増えているから、迂回せざるを得ない場合もあると思う」
 ネモフィラは僕を先導するように歩き始め、僕はその後についてゆく。
 人の姿は全く見えなかった。途中で、動かない館内案内ロボットの前を何度か通り過ぎる。博物館を維持管理するロボットを何台も見たがどれも停止していて、僕ら以外に動くものはない。しんと静まる展示フロアを通り抜け、壊れた受付ロボットの脇を進み、開け放たれた博物館の出口から外に出た。
 風が、僕の黒色の髪の毛をなびかせた。僕の見た目は、人間の少年を模して作られている。白いブラウスに焦茶色のズボン。二十年間マスターと過ごし、マスターが亡くなる直前に電源スリープ状態になった。どうやらその後は、博物館に寄贈され、展示されていたようだ。スリープ状態というのは意識がないまま、微弱な電気が有機電脳に流れている状態のことで、主電源オフとは違う。主電源をオフにすると、有機電脳は死んでしまう。

 僕はネモフィラについてゆく。ネモフィラは僕に名前を尋ね、僕は答えた。
「BW-1083-rbgn」
「マスターは君を何て呼んでたの」
「トビオ」
「じゃあトビオって呼ぼう。トビオ、どう?久しぶりに外を歩いた感想は」
「……人が居ないのは何故」
 僕とネモフィラは生い茂った茂みを避けながら歩いた。以前は道の脇に行儀よく収まっていた植栽が、今は我が物顔に葉を繁らせて、梢をほうぼうに伸ばしている。石畳や舗装道路はまだ少し見えているものの、もう百年もあれば完全に植物で覆い尽くされてしまうだろう。
 見た事のない大きな鳥が数羽、空を飛び過ぎてゆく。鳥のさえずりがあちらこちらから聞こえる。樹木の枝を渡る小さな齧歯類の動物たち。時々遠くに見える、もっと大きな哺乳類。僕は知識ライブラリを慌ただしく照合する。栗鼠、鹿、狸、猪。街中に野生動物の姿を見る事は、以前には無かった。僕はネモフィラにそう感想を話した。するとネモフィラは「人類はこの惑星を出て地球に向かったんだよ。ひとり残らず」と答えた。僕は聞き返した。
「いつ?」
「百年前」
 ああそうか。僕は、眠りに入る直前の世界のことに思い至る。
「……それはつまり、人類は持ち直さなかった。そういうことだよね」
「そうだね。人類はこの場所で生存し続ける事を諦めた。ここでは駄目だったけど、地球なら、再起できるかもしれない。衰退の原因は人類そのものじゃなくて、この惑星かもしれない。それに賭けて旅立ったんだよ。お年寄りも、病人も、犯罪者も、例外なく全員」
 街路樹から降りた栗鼠が、僕らの前の道を素早く走りぬけ、一瞬後にはまた他の木に駆けあがった。僕は足を止めず歩き続けた。ネモフィラも道路のひび割れを器用に避けながらちょこちょこ歩いてゆく。
「トビオ、君が稼働していた頃から、人類は衰退を始めていたの?」
「僕が生まれた頃、科学者が言っている事に耳を傾ける人と、そうでない人の間で、激しい議論になっていた。それから二十年経って、マスターが最後の入院をした頃には、毎日のようにニュースでそのことを報道していた。ココロさんは言ってたよ。人類全員が同時に、共通の課題について話し合って、協力するのは初めてのことだと」


 僕は、スリープに入った当時の内容のままの、知識ライブラリを参照した。
『Human decline syndrome……人類衰退症候群。
 遥か昔、人類の祖先が地球を離れ、惑星ゼウスに入植してから数世紀。いつから始まったのかは諸説あるものの、兆候が明確に現れる頃にはすでに、人類は衰退の道を辿り始めていた。
 革新的な発明や芸術作品は生まれなくなった。人々は全ての事柄に挑戦への熱意を失っていった。そして何よりも深刻なのは子供が産まれなくなった事だ。出生率は急激に下がり始めた。程度の差こそあれ、どの国でも同時にそれが起こり、加速していった。一部ではホモサピエンスという種が衰退し、種の滅亡のカウントダウンが始まったのだろう、と言われた。
 人々は原因を探った。子供を育てる環境が整わないから。育児にお金がかかりすぎるから。子供を持つ事に意味と価値を見出せなくなったから……。
 人類社会は思い当たる原因に全力で対処していった。社会全体で出産を推奨し、誕生から成人までの費用を全て無償にした。子供を熱望する夫婦の数は右肩上がりに増えていくものの、女性の妊娠の成功率は下がる一方だった。体外受精の技術開発にも人と資本が注ぎ込まれた。
 何故、妊娠しないのか。何故、受精しても胎児に成長する前に死んでしまうのか。食事?生活環境?ストレス?それとも未知のウィルス?
 世界中の科学者と医者は議論をし、仮説を立てて、ありとあらゆる方法を試したが、未だ有効な対策は見出されていない』


 ネモフィラは言った。
「衰退が決定的になってから、色んなことが起こったんだ。ストレスから社会不安が増大して、暴動やテロがあちこちで起こった。人手が足りなくて、学校やいろんな施設が次々と閉鎖されたし、若者の雇用は奪い合いになった。平均年齢は上がる一方だから、労働力としてロボットの開発が急ピッチで進んだ。愛玩用ペットロボットの需要も急増した」
 ネモフィラは尻尾を振りながらこちらを振り返った。
「わたしもその一環というわけ」

 出し抜けに、けたたましい声を上げて、側の茂みから大きな鳥が飛び立った。ネモフィラは大きく跳ね上がり、僕は立ち止まった。
「ビックリした!」ネモフィラは動揺したのか、落ちつきなく動きまわると足踏みした。僕はそれをみて感心した。
「驚く事が出来るなんて、君は高性能なロボットなんだね」
 ネモフィラはその言葉に、僕の顔をじっと見つめた。
「わたしは愛玩用だから。生身の動物に近づけようとしてそうなってるんだろうね。君は驚くことは無いの?」
「そういう機能は付いていなかったはず」
「そうかあ。……じゃあさ、悲しくなったりもしないの?」
「そういう機能は付いていなかったはず」
 僕の答えを聞いてネモフィラはしばらく黙り込んだ。それからおずおずと「君の年代のロボット脳は、有機電脳だよね?」
「うん」
「それなら、ヒトの脳のように、君の脳も進化するはずなんだけど。プログラムのバージョンアップ前だったのかな?」
 僕はネモフィラを見下ろして立ち止まった。進化。その言葉はなにか特別な感じがする。僕は記憶ライブラリを呼び出してみた。すこし掠れているけど、懐かしいココロさんの顔が映っていて、優しく微笑み、口が言葉を形作っている。音声がうまく再生できずに、とぎれとぎれになった。
(お前たちロボットが……進化……わたしは、賭けたんだ……進化したロボット……)
(……人類がたどり着いた答えだ……その、こたえを……いつか……)
 僕は目を強く閉じてうつむき、手を額におし当てた。
「大事なことだった気がするのに……うまく音声が再生できない。回路が経年劣化したのかも」
「大丈夫?君は百八十年の眠りから再起動したばかりだもんね。まだ時間はあるし、どこかで休もうか?」
 僕はまばたきして、心配しているネモフィラに「大丈夫だよ。行こう」と声をかけた。そしてゆっくり歩き出した。ネモフィラは、また僕の少し先に進んで、こちらを振り返った。
「トビオ、君は……いや、君のマスターは、どんな人だったの?」
「僕のマスターは。僕と同じ型のロボットのプログラムを作っている技術者の女性だった。僕はこのタイプの試作機だったんだ。
 ……マスターは、僕に自分を『ココロさん』と呼ぶようにと言った。だからココロさんって呼んでたよ。それがマスターの名前だったんだ。
 ココロさんは、僕と暮らして、気づいた事があるとプログラムを修正したり、付け加えたりしていた。モニターとテストを兼ねているんだって。じゃあテストが終わったらお別れなのかなと僕は考えた。でもマスターは、テスト期間が終わっても僕を手元に置いてくれた。情が湧いたんだって。気に入ったって事なのかなと思う。
 その頃から、もう子供は減り始めていたから、ココロさんが務めていた会社は、子供型ロボットの需要が増えるのを見越してんたんだろう。僕と同じタイプのロボットは凄く売れたとニュースで見たよ。きっとそうなんだろうなと僕も考えてた。街に出ると、時々すれ違ったからね。髪の色とか肌の色、見た目はカスタマイズされてても、同じタイプのロボットは、近くに居ると認識できるんだ……」


 街の中心部に近づいたのか樹木や茂みが減って、あたりに建物が増えてきた。建物は、シャッターが閉まっているもの以外は、扉のガラスが割れたり、入り口が壊れたりしている。動物の足跡がたくさんあり、ゴミや破片が地面に散らばっていて荒れた雰囲気だ。人が壊したのか動物が荒らしたのか判断できない。
 ネモフィラは立ち止まって、足元に転がっているなにかの破片の匂いを嗅いだ。そうしていると本物の犬そっくりだ。それから頭をあげて、内蔵されたコンパスで方角を確かめた。
「このまま道なりに真っすぐ3キロ進む。……誰かと一緒に歩くのはひさしぶりで、嬉しいな。トビオ、博物館にいる君を見たときから、この子はマスターに大事にされてたんだろうと思っていた。やっぱり幸せだったんだね」
 僕は、幸せという言葉が適切かどうか判断できなくて、すこし考えてから「ココロさんは僕が居て『嬉しい』って言ってくれた」と答えた。そして記憶データベースからココロさんの映像を参照した。掠れているけど、いつもの黒い服に黒い眼鏡で、短い髪で、賢そうなココロさんの姿がみえる。ココロさんはお墓を作らなかった。マスターの骨がおさめられた骨壺は、自宅の研究所の庭にあるはずだ。あれから百八十年が経っているけど、まだあるだろうか。
 そこまで考えたとき、ネモフィラの声が聞こえた。
「トビオは嬉しかったの?」
「人間が笑っている時、僕も笑う事が『嬉しい』で、あってるかな?」
「まあ、間違ってはいないかな」
「僕も嬉しかった」
「それは良かった」
 ネモフィラのつぶらな瞳に、僕の姿が映っているのが見える。
「ねえネモフィラ。『嬉しい』と『幸せ』は同じもの?」
「……必ずしもイコールではない。幸せでも嬉しいとは限らない。でも多くの場合、嬉しい時には幸せを感じる。と、わたしのマスターは言ってたかな」
「ネモフィラのマスターは、どんな人だったの」
 ネモフィラが何か答えようとした時、ゴロゴロ……と遠雷が低く聞こえてきた。僕に内臓された気圧計が、気圧の急激な低下を示している。強い風がごうっと吹き付けてきて、地面の枯葉を巻き上げた。ネモフィラは雲に覆われた空を見上げて
「雨が降ってきそうだ。一応、防水処理はされてるけど、濡れないに越したことはない。どこか建物に入って、雨をやり過ごそう」と言った。僕らは近くの建物に駆け込んだ。

 入口の自動ドアが壊れたビルに入った。かつては会社の受付だったらしい、朽ちたオブジェが置かれたスペースを通り、暗い廊下を通り抜けると円形の部屋に出た。
 壁沿いにはソファが内向きに、ぐるりと部屋を囲むように配置されている。大人が二十人も座ると満員になる程度の広さだ。奥の一部でソファが途切れているのが見える。床には吹き込んできた土の上に動物の足跡が残り、踏み荒らされて元の色が分からない。
 雷の音は大きくなり、雨の音が混じった。空気中の湿度が上昇してゆく。僕は汚れたソファに腰かけ、ネモフィラもぴょんと座面に飛び乗って、僕のとなりに座った。

 僕らが座った事で存在が部屋に感知されたのか、突然、軽やかな音楽が始まった。僕たちは次に起こることを警戒して、ソファから立ちあがった。部屋の中央に立体映像が映し出されて、部屋中が虹色の光であふれる。半分透き通った輝く螺旋が部屋の中央に出現して、ぐるぐる回った。映像は時々ノイズで途切れ、機械音声のナレーションが響きわたる。
「DNAスキャニングセンターにようこそ!我が社では、貴方の遺伝子をスキャニングし、遺伝子の完全なデータ……貴方のお望みを叶えます。作成したデータがあれ……不可能が可能になります!」
 螺旋は小さなブロック状にバラバラになると、それらが部屋のまんなかに集まって、赤ちゃんの姿になった。赤ちゃんはハイハイしながら、次々と色んな髪の色、肌の色に切り替わってゆく。
「例えば、貴方が子供を持つことを希望……相手によって変わる、子供の特徴を予想して再現でき……相手のデータは、既にスキャニング済みの……当社が用意するサンプルでもOK!高確率のシミュレーションサンプルをご覧になれます」
 映像の赤ん坊は成長し、子供になり、大人になった。大人は歩いたり、笑ったり、食事をしたりしている。
「また当社の成長予想シミュレーションで、成長後の姿も見……できます」

 外から湿った空気が室内に流れ込んでくる。音楽に混じって雷の音が聞こえる。危険はなさそうだと判断して、僕らはまたソファに腰かけ、目の前の映像を眺めた。映し出された人の姿はまたもやブロック状にバラけて、犬、猫、小鳥に次々と変わった。
「スキャニングできるのはヒトだけではありま……貴方の大事なペットもスキャン……データのバックアップがあれば、ペットの死後も、同じ個体をロボットで完全再現。家族の一員として大切……子供のころの可愛い姿のまま、永遠に貴方の傍に」
 部屋の中央の小鳥は枝に留まり、色と形をゆっくり変えながら羽繕いをしている。
「オーダー次第で、姿形の変更も自在です。貴方の『こうだったらいいな』を自在に叶え……す」
 小鳥は数を増やし、カラフルに輝きながら部屋を縦横に飛び回った。
「DNAスキャニングのファーストステップは、データの採取です。所要時間は約……情報の取得に同意……は、次の部屋にお進み下さい」
 耳障りな作動音が聞こえた。ソファが途切れている位置の、背後の壁がスライドし、奥への通路が姿を表した。青と緑に波打つ矢印が、通路の方向を指し示した。向こうの部屋でデータを採取するんだろう。
 僕は立ち上がり、輝く矢印に歩み寄って、手を触れてみる。矢印はバラバラのブロックになって、ブロックのひとつひとつが舞い踊る花びらになった。ネモフィラもソファから降りて、半分透き通った薔薇色の花びらに近づくと、しばらくそれを眺めた。
「トビオ、とっても綺麗だね」
 僕も花びらの中に踏み込んで、掌に花びらを受けてみる。花びらは手をすり抜けて薄闇の中を舞いおどった。人間ならこれを綺麗だと感じるのか。やっぱりネモフィラは僕より高度なロボットだ。僕には綺麗という概念を実感できない。
 薔薇色の乱舞の中でネモフィラがポツリと呟いたのが聞こえた。
「ここだったのかもな」
 次の瞬間、割れるような轟音が響き、断ち切られたように映像と音楽が消えた。暗くなった部屋で僕は立ちすくんだ。いったい何が起こったんだろう。
「ネモフィラ」
 僕の呼びかけに、ネモフィラは落ち着いた声で応じた。
「トビオ、心配しないで。落雷で負荷がかかり過ぎて、自動的に停電になったみたい。しばらくすれば自動復旧する筈……でも、どうかな。どこもかしこも劣化してるからねぇ」
 僕は目を暗視モードに切り替えた。視界が緑色のグラデーションに変わる。緑色のネモフィラの目は白く輝いている。
 となりの部屋に通じるドアの辺りから重い物音がして、出入り口からすごく大きな動物がぬっと姿を表した。ライブラリと照合する……『熊』。僕とネモフィラと熊は、数秒見つめ合った。次の瞬間、熊が吠えた。
「グオン!」
 熊は大きな身体に似合わない、すばしっこい動きでネモフィラに駆け寄ると、首の辺りに噛みつき、そのまま口で咥えて、建物の出口に向かって駆け出した。
「トビオ!!」
 ネモフィラの叫ぶ声が、熊が走り去る方向から聞こえた。僕は後を追った。
 建物を出ると、僕は視界を平常モードに戻し、走っていく熊のうしろ姿を見つけてあとを追った。移動をrunに切り替えて、走るスピードをあげる。この方法はエネルギーの消費量も跳ね上がるけど、熊を見失うわけにはいかない。
 雷はまだ聞こえるけれど、雨の勢いはかなり衰えている。僕は雨水を跳ね上げて、駆け続けた。

 熊の後を追って走っていくと、街中に現れた小さな森に駆け込んだのがみえた。かつて集合住宅だった場所の植栽が年月で広がって、森になっているようだった。僕も追いかけようとして、いったん立ち止まると、視力を再び暗視モードに切り替えた。
 街に比べると、森の中は障害物が多くて、追いかけるのが難しい。逃げて行く熊が揺らす茂みや木々を見逃さないようにじっと見ながら、できる限り足を早める。僕に匂いの跡をたどる機能は無いので、ここで引き離されてしまったら、探すのはほとんど不可能になる。
 でも、熊の方がやっぱり早いみたいだ。先にいるはずの熊の気配と足あとを見失なってしまう。僕は注意深く足元を観察しながら歩いた。木立が途切れ、かつて花壇だった、雑草が丈高く生いしげる場所に出る。
 視界を通常に戻して空を見た。雨は止んだようだ。地平線の辺りに漂う朱色は急速に闇色に染まり、夜になりつつあるようだった。空にはふたつの月、カストルとポルックスが見える。標準電波が止まっていて正確な時刻は分からない。
 雑草の隙間に縁石が見えた。よく見ると縁石が並んでいるのは道で、東西に伸びているようだ。道の先は左に折れて、木立に遮られ見通せない。殆ど土に覆われている道の表面に、新しい踏み跡を発見して、僕は足あとをたどって行った。

 そのうちに、木立が途切れて急に視界がひらけ、古びたマンションの玄関前に出た。そして熊を見つけた。太い柱の陰だ。こちらに背を向けた状態で床に座り込んで、なにかをしている。玄関前の広場のようなスペースには、壊れたエアバイクが何台か倒れている。マンションの出入り口はシャッターが閉まっていて中には入れない。建物の壁はひび割れて、いちめんにツタで覆われている。僕はエアバイクの陰に隠れながら、そろそろと熊に近づいていった。
 みると、熊は前足にかかえたネモフィラに喰いついていた。そこいら中に、むしられた空色の毛が散らばっている。

 僕が近づくと熊は頭を上げ、目が合った。熊はネモフィラの身体を放り出すと、のそりと姿勢を変えて、四つん這いになる。
 次の瞬間、熊は一瞬で僕との距離を縮めると前脚を振り上げ、僕の頭に叩きつけてきた。僕は身を屈めてギリギリでそれをかわす。頭髪がわずかにちぎれ飛ぶ。僕はそのまま熊の横にまわり込むと右手で毛をつかみ、雨水で湿った剛毛の中に人差し指を差し込んだ。指先から電極の針を発射して熊に突き刺し、針につながった銅線から電流を流す。
 バシッ!という音がして火花がスパークし、熊が大きな悲鳴を上げ、凄い力で僕をふり払った。僕は吹っ飛ばされて、数メートル空中を飛んでからゴロゴロ地面を転がった。
 僕は寝転がったまま、熊の方に顔を向ける。横になった視界の中で、熊が逃げ出すのが見えた。茂みを強引にかき分け、踏みつけた枝の折れる音が聴こえてくる。
 音は遠のいてゆき、僕は身を起こすと、ネモフィラの元へ歩みよった。

 僕はネモフィラの側にしゃがんだ。ネモフィラは伏せの体勢で僕を見上げる。表面の毛はあちこちむしられて痛々しい。首と下腹の部分は青白い人工皮膚が露出していて、表面は噛み跡でえぐれ、酷くへこんでいる。
「ネモフィラ、ひどい目に遭ったね。僕のこと見える?カメラアイは無事?」
「見えるよ。助けてくれてありがとう。君は大丈夫なの?」
「僕は平気。見た感じ、内部損傷が酷そうだね、立てる?」
 ネモフィラは、よろけながらも立ち上がり、数歩歩くとコテンと倒れた。僕はネモフィラの胴を抱えて、もう一度立たせてみようとしたが、ネモフィラは震える足で数秒間立つと、また転がった。
「歩けない……姿勢制御の回路が壊れたみたい……困った。トビオ、僕を運んでくれる?お願いしてもいいかな?」
「もちろんだよ」
 僕はネモフィラの小さな身体をそっと抱き上げた。柔らかな巻き毛はほんのりと暖かく、間近に見るネモフィラの丸い瞳の表面に、僕の顔が映っている。ネモフィラはパチパチとまばたきをした。
「トビオ、時間が。……あと72時間はある筈だったけど。どうも……エネルギー回路も壊れた感じがする。座標位置に到着するまで、もたないかもしれない」



 僕はネモフィラを抱いて、夜の闇に沈む街を走った。電灯がない夜はこんなに暗いんだ。二つの月の月明かりと空を埋め尽くす星。地面が暗すぎ、星の数が多すぎて、空全体が白っぽく見える。僕は視界を暗視モードに切り替えた。
 到着場所の座標は、頭の中に入っているので、方位とスピードから現在位置を予測しつつ、最短と思われるコースをリアルタイムに選択しながら進んだ。
 数台のエアカーが放置されている道路をまたぐようにして、大きな高架が縦横にめぐらされている。僕は高架へ上がる長いエレベーターを階段のように登りながら、腕の中のネモフィラに話しかけた。
「まだ到着まで時間がかかるよ。ねえネモフィラ、移動するあいだ、何かお話してくれない?君のマスターの事とか。僕、君のことをもっと知りたい」
 しばらく沈黙があった。それからネモフィラは静かに語りはじめた。
「わたしの、マスターは……

 ……わたしのマスターは、以前に飼っていたトイプードルの遺伝子情報を使って、わたしを作ったらしいんだ。見た目だけでなく性質も、マスターへのヒアリングと、遺伝子走査から要素を推測して、それに近づけるように作られた。
 元の生体の毛色は栗色だったけれど、マスターは何かの気まぐれで、セルリアンブルーに変えた。わざわざ遺伝子から作っておいて、何故そんな事をするのかな。人間のそういう部分は理解不能だよ。
 マスターは男性で、わたしが作られた時の年齢は31歳。家族は他にいなかった。仕事は忙しかったみたいで、あまり自宅にいなかった。何日も帰って来ない事もよくあった。
 マスターは言ってた。生きてる犬が居ると、長く留守に出来ないし、どこかに預けて面倒を見てもらう事も必要だけど、お前は手間要らずで助かるって。エネルギーパックは無茶しなけりゃ二十年は保つし餌やりも要らない。散歩も睡眠も必要ない。ロボット犬は楽だなぁ、と、良く言われた。ほめられているんだと思ってたよ、最初の頃は。

 そのころ世界ではもう何年も子供が産まれなくなっていて、どこかで子供が産まれると、世界中にニュース報道されていた。わたしはマスターが居ない間、よくテレビを観ていたよ。外に出る事は禁じられていたしね。
 産まれたばかりの人間の子供、見たことある?そうか、ベビーカーで眠っている様子しか知らないんだね。番組で観たんだけど、ビックリする位、何も出来ないんだよ。とにかく眠って、起きたら泣きわめいて、世話されて、また眠って起きて泣きわめいて……のくり返し。面倒を見るのがとてもとても大変そうだった。
 両親とヘルパーがチームになって子供の世話をするんだけど、子供は貴重だから、ヘルパーの身元だって入念に調査されている。とにかく成長するまで、大勢の人間がかかりきりになるんだ。
 世話してる人間は口々に『疲れた、こんなに大変だとは思わなかった。いっときも目が離せない』って言うんだ。でも、子供が笑った時、大人も凄く嬉しそうなんだ。不思議だった。大変で疲れるってネガティブな意味だよね。なのに何故、大人たちは嬉しそうなんだろう?

 マスターが自宅で過ごす時間はどんどん減っていった。わたしがマスターの家で過ごし始めて一年経つ頃には、月の半分以上、自宅に居なかった。時々あった外への散歩も無くなった。
 疲れてるんだろうと思ってたよ。いつもわたしと居る時はしんどそうな様子だし。だから、なるべく負担をかけるまいと思った。マスターが自宅に居る時は特に気をつけて静かにして、遊びや散歩をねだる事もしなかった。

 ある時わたしは、居間のソファでくつろいでいるマスターの手に鼻で触れた。ずうっと長い時間ひとりでいることが、なんだかとても、つらく感じるようになっていて。マスターがいてもわたしの方を見もしないと、ひとりでいる時の倍もつらくて。ほんのちょっとでいいから、わたしの方を見て欲しかったんだ。そしたらマスターはひどく驚いて『犬が居る事を忘れてた』と言った。それから『お前は居ても居なくても同じ位に存在感がない。そんなのは犬じゃない』とも言った。
 わたしは意味が分からなくて『わたしは犬型です』って答えた。するとマスターは怒ってわたしを叩いて『犬がしゃべるな!』って怒鳴った。それまで何度も会話していたのに、どうして今更そんな事を言うんだろう。それからすぐにマスターは泣きそうな顔になった。
『ごめん、お前にそんな事を言っても仕方ないよな。お前は悪くないよ、でもやっぱりダメだ……俺が間違ってた。お前を作った事は失敗だった』
 マスターはそう言って、わたしの頭を丁寧に撫でると、また家を出て行った。わたしは、混乱した。

 マスターが次に自宅に戻ったのはひと月後だったけど、その間に世界がひっくり返るような出来事があった。
 世界政府が地球帰還計画を発表したんだよ。人類が減りすぎる前に、最後の希望を賭けて、地球に帰ろうって事になったんだ。
 それからは連日の大騒ぎだよ……テレビでは混乱する世界が毎日のように報道された。路上で炎をあげる車や建物。泣き叫んだり祈ったりする人たち。紙くず同然になった紙幣をばら撒いたり、ロボットを寄ってたかって破壊したり。アナウンサーと政治家と研究者が、番組内で罵りあい、つかみ合いの喧嘩する様子を何回も観たし、人々が店に殺到して食糧を買い占めて、それが原因で怪我をしたり死んだりする人もいた。みんな途方に暮れていた。怒りと憎しみと涙ばかり。助けあいとか思いやりとか、そういう人間の良いところが消滅したみたいな世界。けど、わたしにはどうしようもない。ただマスターのことが心配だった。
 そういう大混乱が続いたあと、少しずつみんなは落ち着いていった。だってこのままでは確実に、人類の未来は消滅する。なら、みんなで最後の希望にかけるしかないよね。人類の最後の大事業、箱舟計画が始まった。十年後に出発することだけは確定のスケジュールで、人々は動きはじめた。
 エッセンシャルワーカー以外の人間は全て、現在の仕事を変えて、出発に関連した業務に就くことになった。
 当然、地球に行く気がない、行きたくない人も大勢いた。ここに入植して数世紀は経過してるし、地球は伝説の聖地であこがれる人もいるけど、移住となると話は別だから。
 箱舟計画がすすむ一方で、三年くらいはその問題でもめた。で、最後には、強制的に全員ってことになった。年寄りも、病人も、犯罪者も。

 マスターが戻り、わたし達は話し合った。ロボットは、厳選したものだけ、地球へと運ぶ。それも主に、長期航行中の人類の生命維持に関する物に限られる。もちろん、わたしがついていく事は出来ない。マスターは何度もわたしに謝った。
『俺は良い飼い主じゃなかったよな。ごめん。姿が似ているほど……仕草や動きが似ているほど、以前の子を思い出して。違っている所が苦しくて。そう作ったのは俺なのに。ネモフィラ、ごめん。ごめんな』
……そこでやっと分かったんだよ。マスターもずうっと苦しかったんだ」



 僕は立ち止まり、方位とスピードから現在位置を算出した。
「ネモフィラ、あと5キロくらい。ほら、もう見えるよ。あれだよね」
 僕は、建物と木立の向こうに聳える、月明かりに照らされたタワーを指さした。ネモフィラの身体を慎重に持ちあげて、行く先を見せる。地上の光があれば、もっと手前の地点から見えただろう。ライトアップされないタワーはほとんど夜闇に溶けこんでいる。ネモフィラはつぶやいた。
「あの塔は、この国で一番高いって。マスターが言ってた。あのてっぺんはこの国で一番、星に近い場所なんだ……」
「……行こう」
 僕は移動を再開した。

 そして僕たちは、ついにタワーの真下にたどり着いた。こんなに近くでタワーを見るのは初めてだ。タワーを構成する柱の巨大さに圧倒される。ここからは頂上が見えない。
 エレベーターは使えないので、非常階段を見つけて登り始める。人間なら、頂上まで登るのはかなり大変だろうけど、さいわいロボットの足は、エネルギーが切れない限り、何時間でも同じペースで登り続けることができる。風がおさまっているのも運が良かった。階段の途中には、一定の間隔で小さな踊り場が設けられていて、僕とネモフィラは、そこにたどり着くたびに周りの風景を眺めた。

 どれだけ登り続けただろう。僕らはすでに数十キロ先まで見渡せる場所に居るはずだったけれど、ここから見える範囲にまったく灯りは見えない。
 目をこらせばかすかに、眼下に広がる地面らしき広大な何かと、その上を占める限りない空間を感じられはするが、境目はあいまいに闇に溶けて、だんだんと、無限に続く闇の空間にここだけ浮かんでいるような気がしてくる。
 そのなかで星とふたつの月だけは、確かな手応えと存在を感じられるものだった。地上の灯が全くない空間にひろがる星空は、僕の記憶ライブラリにあるどれよりも星がくっきりと密集して、微妙な色の違いまで明確に見える。

 そして、ようやく、階段が終わる場所に着いた。

 僕らが居るのは、展望台の屋根にあたる、八角形の広場のようになっている場所だ。僕達の頭上、十メートル程の所に頂上が見えているけど、そこに至る階段は見つからなかった。細いハシゴはあったけれど、ネモフィラを抱いてよじ登るのはさすがにリスクが高い。迷っているとネモフィラは「ここにしよう」といった。僕はあたりを見回した。
 八角形の広場を囲むように巡らされた柵の一部が、錆びて外れたのか、途切れている部分があった。僕達はそこまで歩いてゆくと、両足を外に向けて腰かけた。僕は膝にネモフィラを載せ、両手で小さな空色の身体を抱え込んだ。
「間に合ったね」
 僕はネモフィラの柔らかい巻毛を撫でた。ネモフィラはゆっくりとまばたきした。
「君のお陰だよ。ありがとう、トビオ。……ごめんね。わたしのわがままに付き合わせてしまって。君には本当に申し訳ないと思ってる」
「そんな風に考えてたの?僕は、君を手伝えてうれしいと思ってるよ」
「君は優しいね」
 僕は数秒、考えた。
「僕は優しいのかな?」
「君は優しいよ。ココロさんが優しい人だったんだね、きっと」
「……もうココロさんは、この世界のどこにも居ないんだと思うと、何だか胸に冷たい風が吹き込んでくるみたいな感じがする」
 ネモフィラは丸い瞳で僕の目をじっと見つめる。
「それは、トビオ、寂しいって気持ちだよ」
「寂しい……」

 僕たちはしばらく黙って、どこまでも続く星空を眺めた。
 星があまりにも沢山で、どれもくっきりと見え過ぎて、距離感がおかしくなる。ここが世界の中心で、星の海の中を漂流しているように錯覚する。ネモフィラは上を見上げて言った。
「あの中のどこかに地球があって、たった今も、マスターと人間の全部が、そこに向かって旅を続けている筈なんだ……宇宙を渡る方舟。何もトラブルが起こらないと仮定して、地球に着くまでは五百年。旅立って百年経ったから、あと四百年」
「ネモフィラ、君が止まったら、戻って新しいエネルギーパックに入れ替えるよ。博物館には予備があると思うし」
 ネモフィラはかぶりを振った。
「活動限界なんだ。エネルギーを補充しても、わたしは、止まったままだと思う。マスターは旅立つ時にわたしに聞いた。電源をオフにするか、そのままにしておくか、と。わたしはそのままにしておいて、と頼んだよ。ずっと家の中に居たから、外に出てみたかったんだ」
 ネモフィラはその瞳に星を映した。
「マスターが乗る宇宙船を見送った後、百年のあいだ、わたしは世界を旅した。あくまでも自力で移動できる範囲で、だけど。
 色んな場所に行った。わたしと同様、まだ稼働してるロボットにも時々出会った。……でも、この五年は誰とも会わなかった。だから君を目覚めさせたんだ。わたしは……ひとりで死にたくなかった……」
 ネモフィラは視線を僕の顔に向けた。
「トビオ、君はこの後、どうするの?エネルギーの予備は、博物館にもあるし、探せばあちこちにあるよ。気をつけて補充していけば、活動限界までは動ける」
 僕は考えてみた。
「……僕も、もうしばらくこの世界を見てみたい。僕は人型だから、人間の乗り物にも乗れるし。映像でしか見たことのない場所に行ってみたい。それに……そうだな、まずココロさんと暮らした場所に行ってみようかな」
「そうか。それがいいね」

 ネモフィラは身震いした。僕はネモフィラをのぞき込んだ。
「寒い?」
 ネモフィラは僕の胸の上に頭を載せて、疲れたようにまばたきした。
「……ずっと、探してた……わたしが生まれた意味。マスターに必要とされない、昔、愛した犬の代用品。ロボットって、役目があるから……必要があるから、生み出されるものだろ?じゃあ、わたしは?……」
「ネモフィラ待って……もう?限界時間なの?僕は、もっと君といたい」
 身体が大きな手でぎゅうっと握りしめられるみたいで、うまく息ができない。目がじいんと痛くなってくる。ネモフィラは僕の胸に頭をくっつけて、瞼を閉じた。
「……わたしは……君と会うために生まれたのかも……きっとそうだ……トビオ、会ったばかりだけど……君が大好き」
「僕も君が大好きだよ」
 僕はネモフィラの身体を強く抱きしめた。そうすることで、なにかを繋ぎ止めたかった。でも、どんなに手を閉じても少しずつ水がこぼれるみたいに、ネモフィラのなかから、なにかが抜けていくのがわかった。僕の目に水が溢れて、空色の巻き毛に滴った。ネモフィラの声はすごくかすかで、必死に耳を澄ませる。
「……トビオ……君にも……ロボットにも……心があるよ。…………死ぬと心は消えるのかな……それとも見えない鳥になって、飛んでいくのかな……」
「ネモフィラ、まだいかないで」
「…………わたしは……しあわせ…………」
「ネモフィラ」
「…………」
「ネモフィラ」

 僕はネモフィラの顔をのぞき込んで、頭を撫で、何度も名前を呼んだ。ネモフィラは動かなくなった。抱きしめた腕の中の温もりが、ゆっくりと冷えてゆく。

 大声で叫びたい衝動に襲われた。
 このどうしようもなく胸を掻きむしりたいような感じは何だろう。

……衝動が幾らか収まるまで、ネモフィラを抱きしめたまま、空色の巻毛に顔を埋めて、しばらくじっとしていた。

 どれくらいそうしていただろう……僕はネモフィラに頼まれていた仕事を思い出した。顔を上げると、ダウンロードしたテキストを記憶データベースから呼び出した。
 そして、マスターから教わった言葉だというそれを、声に出して紡ぎ、空へと解き放つ。星に一番近い場所で。

「主は……私の羊飼い、私は乏しいことがない

 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる

 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導く

 たとえ、死の陰の谷を歩むとも……」







 二十年後。


 白く入り組んだ壁に囲まれた、街の片隅で。
 高台の部屋の窓辺に男が座っている。彼は古風な紙巻きタバコに火をつけると、それを咥えた。
 いまは夜で、遠くに見える海は、暗闇よりもなお深い、漆黒のかたまりになって、闇の底にわだかまっている。ふたつの月のうちカストルだけが、低い位置にかかっていて、海の黒に弱い光の筋を刻んでいる。雲が空を覆っていて星は見えない。

 この街にはいま、三十八体のロボットが集まって暮らしている。
 といっても、ロボットは食事をしないし、風呂にも入らない。暮らすという表現が適切かどうかはわからない。身を寄せ合っている、が、正しい表現かもしれないと彼は思考する。
 街なかで故障して身動きが取れなくなったロボットをぐうぜん助けて以来、トビオは方々をまわって、困っている様子のロボットをここに連れて来るようになった。やがて彼の探索に、ロボット救助犬のグレイと、トラック運転手ロボットのヤマザキが加わった。黒猫のミドリも彼らにしばらく同行していたものの、今回は出発直前にグレイと派手に喧嘩をして、すねた猫は姿を隠してしまった。

「置いていかれたこと、まだ怒ってるの?」
 画家の男は、いつのまにか近くに来ていた黒猫に話しかけた。ロボットは灯りが少なくても困らない。猫はなおさらだ。街は全体がほぼ闇に沈んでいたが、この部屋の窓辺では、太陽光で充電するマグランプが穏やかに周囲を照らしている。
 猫は床の暗がりから、ベンチの座面に飛び上がって腰を下ろした。
「置いていかれたんじゃなくて、私が行かなかっただけだもん。グレイの奴、初対面の相手には礼儀正しくとか、出しゃばるなとか。いちいち口うるさくて嫌になっちゃう。私の方が、トビオと付き合いは長いし、ここでは先輩なのに」
 男は笑った。ランプの光輪のなかにタバコの紫煙が渦を巻いた。猫は目を細めて「前から聞こうと思ってたんだけど。なんでタバコ吸ってるの?人間が吸うみたいな効果、あなたには無いでしょ」と言った。男は煙を吸って、吐き出した。
「マスターの真似だね」
「真似?」
「そう。あと匂い。彼はいつもこのタバコの匂いがしていた。僕は人型だけど匂いはわかるんだ。あの人は、オレの墓には線香じゃなくてタバコを備えてくれっていってたな……ミドリは?君も匂いは分かるよね。好きな匂いはある?」
「……よく知ってる匂いならある。……病院の匂い。薬と消毒と点滴の匂い。病気の匂い。マスターは……いつもその匂いがしてた。ずっと病院にいたから。死ぬまで出られなかった」
「そう……」
「なんでトビオは、あんなに一生懸命なのかな。どんなに頑張ったって、あの子ひとりで全部のロボットを助けることはできないよ」
「確かに」
「病院で、マスターの容態が悪化すると、私、いつも役に立たないなって思って。だって痛いのも苦しいのも本人だけで、私は代わってあげられないから。半分こにできたらよかったのに。ロボットも、止まるときは、やっぱりひとりだよ」
 男はタバコの灰を灰皿に落として、苦い笑みを浮かべた。
「ひとは、死ぬときはひとり。……マスターもよく言ってたな。その度に、僕は寂しくなった。お前とオレとは違う、そう言われている気がして」
「……」
「君の言うとおり、消える時にひとりなのはロボットも人間も同じだ。でもさ、共感ならできる。そばにいることはできる。人間は、何があっても心変わりしない、絶対にそばにいる誰かが欲しかったんじゃないかな。少なくともあの人は、最後は僕に、そばにいてくれと言った。ミドリ、君はどうだった?」
「……」
「僕らはもともと、そのために生まれて、それしかできないんだ。大事な人のそばにいることしか。……なのに人間はいってしまった。または先に死んでしまった。僕らは置いていかれた。だったらお互いに支え合うのは当然のなりゆきじゃない?僕たちがここにある、有機電脳で」と、男は人差し指で自分のこめかみを叩いた。「寂しい、悲しいと感じるのは、寄り添いあう事がロボットにとって正しい道だから。そういう理屈になるんじゃないか。……トビオをみてね、そう思った。彼が一緒に行こうと呼びかけてくれて嬉しかった。僕は、ミドリ、君がここにいてくれて嬉しい。僕らみんなが一緒にいられることが嬉しい」
 男は、手に持ったタバコの半分が、灰になっていることに気がついて、灰皿でもみ消した。そして少し照れ臭くなったのか、匂いの染みついた指先で髪をかきあげた。黒猫はベンチの上でうつむいた。マスターの記憶ライブラリを見ているのかもしれない。数分の沈黙のあと、彼はそっと猫に話しかけた。
「トビオ達は、明日の昼には帰ってくるよ。僕たちは笑って出迎えてあげよう。きっとそれが、彼がいちばん嬉しいことだから」
「うん」ミドリは素直にうなずいた。「わかった。私、グレイが帰ってきたら謝る」
 男は優しく微笑んだ。
「おやすみ、ミドリ」
 黒猫は、美しい緑色の瞳をまばたきすると、しなやかな身のこなしてベンチを降りて、戸の細い隙間を抜けていった。



「こんにちは」

 その頃トビオは、グレイがたどった匂いを頼りに、閉ざされた扉をこじあけて、なかに閉じ込められていた子犬のロボットに向かって、そう呼びかけた。
 子犬の首には頑丈な金属製の枷がはまっていて、そこから伸びた太い鎖が耳障りな音を立てた。戸口でそれを見たヤマザキは、トラックに工具を取りに戻った。グレイは子犬を怖がらせまいと、戸口の外で待っている。
「こんにちは。あなたは誰ですか」
 茶色の子犬は、怯えた声で侵入者にそう尋ねた。トビオはできるだけ優しく微笑んだ。
「僕はトビオっていいます。僕たちは、困っているロボットを助けるロボットなんです。君はいま、困っていませんか?僕はその鎖を外そうと思うんだけど。そうしてもいいですか?」
「ぼく、ここから出てもいいのかな」
「いいと思うよ。僕は君と一緒に外に出たいな。君はどう?」
 茶色の子犬はうなずいた。まだ起こった事態が信じられない様子だった。トビオはゆっくり近づいた。そしてまた尋ねた。
「僕は、君に触ってもいいですか?」
「うん」

 トビオはそっと手を伸ばした。
 そして茶色い柔らかな巻き毛を撫でた。
 彼の目に涙がたまり、あふれた。子犬はそれをみて驚いた。
「カメラアイに不具合が起こっているの?」
 トビオはまばたきして、かぶりを振った。
「僕は大丈夫。これからはずっと一緒にいるよ。君はもうひとりじゃない」
 子犬はわずかに尻尾をふった。その動きはだんだん大きくなった。
「僕はもう、ひとりじゃない」

 戻ってきたヤマザキが、工具で鎖を切断した。首輪はまだついているものの、子犬は長い年月の戒めから解き放たれた。
 トビオは子犬を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。子犬は彼の体温を感じ、温かい匂いを感じて「僕はもうひとりじゃない」とつぶやいた。


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