外から見た日本語13 コミュニケーションのための日本語と私のための日本語を使い分ける
21年ぶりに帰国して感じたことばの変化がいくつかある。ひとつは「外から見た日本語11 大丈夫です」で書いたように、「大丈夫です」の使い方の変化。
それから「4日」、「10日」、「14日」、「20日」を「よんにち」、「じゅうにち」、「じゅうよんにち」、「にじゅうにち」という読み方をする若者が多いことにびっくりした。20〜30代と思われるYouTuberはほぼ100%この言い方をしている。学校の先生や親はこういう言い方はしないと思うので、なんの影響なんだろう?アニメとかゲームのキャラクターの影響か何かだろうか??この言い方はわかりやすくて合理的かもしれないけど、音がザラザラして耳障りなので私は使いたくない。
テレビを見ていると、「父」、「母」というべきところで「お父さん」、「お母さん」と言っている人がめちゃくちゃ多い。若い人だけでなく、40代以上の人たちもそう言っている。とにかく、「父」、「母」という言い方を帰国してからほとんど聞いていないような気がする。日本では、もう、父、母、祖父、祖母のような言い方はしなくてもいいというコンセンサスができ上がっているのだろうか。
「よんにち」でも「じゅうにち」でも意味はわかるから、そういう言い方をしている人に直したほうがいいと自分の”好み”を押し付ける気はない。ただ、日本語教師として生徒さんたちに「よっか」、「とうか」という言い方や、「父」、「母」と「お父さん」、「お母さん」の使い分けを教えてきた身からすると面食らうところはある。テキストにもそういう言い方しか載っていないので、私はいつも「テキストにあるように、○○という言い方が正しいですが、最近は日本語も変化してきて、△△という言い方をする人も増えています」のような補足をすることになる。
私は今のところ、「父」、「母」と「お父さん」、「お母さん」を使い分ける派だ。でも、矛盾するようだが、「妻」とか「夫」という言葉を使わずに、「うちの奥さん」とか「うちの旦那さん」と呼ぶことには違和感がない。改まった場面では「妻」、「夫」というべきだろうが、この言葉には英語のワイフとハズバンドを直訳して和の習慣に洋の習慣を無理やり持ち込んだような、ちょっと気取った響きと違和感がある(私見)ので、照れくさくて使うのに抵抗があるのだろうと思う。だから、自分の配偶者を「奥さん」、「旦那さん」と呼ぶのは個人的にはいいんじゃないかと思っている。仕方がない。他に使いやすい表現がないんだから。
そこにいくと関西弁はいい。「嫁はん」とか「連れ」とかいうことばには気取りがなく親しみやすくて、私はとても好きだ。「嫁」ということばに抵抗を感じる人もいるかもしれないが、今は嫁ということばを夫の家族に仕える女中みたいなニュアンスで使っている人は絶滅しつつあるだろう。ことばの意味は変わっていく。私は配偶者の意味で使っているなら「嫁」ということばにもまったく抵抗はない。
また、適当に敬語を使っている人が多いのも気になった。これもYouTubeを見ていて感じるのだが、尊敬語と丁寧語を混同して使っている人が多い。例えば、占い動画で「あなた様には○○というカードが出ていらっしゃいます」のように、カードに尊敬語を使っているような例ーー占い好きなのがバレましたねーー「いらっしゃいます」は丁寧語ではなく尊敬語だということが分かってないのだと思う。でも、こういう使い方をする人たちが増えれば、そのうちそれもよしとなるだろう。もしかしたら、尊敬語、謙譲語、丁寧語の区別なんてそのうちなくなるかもしれない。いや、時間の問題で早晩なくなるんじゃないかな。「ら抜き言葉」が市民権を得たように。今は「ら抜き言葉」が紹介されている外国人向けの日本語のテキストもある。
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そんなわけで、私は日本を離れている間に起きていた日本語の変化をどう受け止めればいいか、自分は日本語とどう付き合っていこうか、折に触れて考えていた。そして、暫定的にたどり着いた結論は、日本語を文字通り使い分けること。ことばにはコミュニケーションのツールという実用的な機能、文化そのものであり、さらにその時代の文化を内包して次の時代に伝えるという機能、そして日本語を母語とする人のアイデンティティそのものという3つの側面があると思う。私にとってはね。
コミュニケーションツールとして
コミュニケーションツールとしては、意思の疎通が図れればいいわけだから乱れていようと文法が間違っていようと、ま、いいではないか。世界中で多くの人々が母語ではないことばを使って生活している現代では、通じればいい、ということを受け入れるしかない。
ニューヨークには世界中から人が集まっていて、英語が母語じゃない人達がみんな堂々と”俺の英語”を話している。文法が無意味だとは思わないけれど、彼の地では”俺の英語”を受け入れなければ社会が回っていかない。英語はアメリカでは必死で生きている移民にとってのコミュニケーションツールであり、サバイバルツールだった。日本もそうなっていくだろう。
日本語という文化を愛でる
高校時代は古文の時間に助動詞の活用とか品詞分解させられて嫌になったけど、昔の日本語って本当に面白い。私は枕草子の「春はあけぼの〜」の冒頭部分がとても好きだが、源氏物語や徒然草、方丈記、平家物語など、有名な古典文学作品の冒頭部分や和歌はやっぱり素晴らしい。特に音読するとその音楽的な美しさがよくわかる。音が耳に心地よくてリズミカルで流れるような旋律があって、日本語は意味を伝えるツールにとどめておくのは勿体なさすぎる。文化としての日本語は、便利なコミュニケーションツールとしての日本語とは切り離して大切にしたい。
日本語を母語とする人のアイデンティティ
日本に住んでいたときは、日本語を体の一部のように自分とは不可分なものとして、無意識に自分の手足のように使っていた。日本語があるから自分を表現できているなんて改めて考えたこともなかった。
でも、21年間ニューヨークに住んでみてわかった。私は英語では自分のアイデンティティを表現できない。持つことができたのは、ニューヨークにいっとき仮住まいしている日本人というアイデンティティーだけだった。コミュニケーションツールとして使うことはできても、私は英語で映画や文学作品を充分に味わうことはできない。ところどころピースの抜けたジグソーパズルみたいで、細胞の奥にまでことばが伝えるメッセージが浸透していかないのだ。ことばには文化がDNAのように刻印されているので、辞書で意味だけ調べても頭で表面的な理解をすることしかできないんだろう。英語で表現できる私のアイデンティティーも、やっぱりところどころピースの抜けたジグソーパズルのようなものでしかなかった。
音楽やスポーツやダンス、ファッション、アート作品などで自己表現ができる人もいるけれど、私はそういうことには長けてないので、ことばが自己表現のための主要な手段であり、私のアイデンティティの中核をなすものだと思っている。だから、私にとって母語である日本語はとても大切なのだ。
暫定的な結論
私は異なる文化圏の人たちや異なる世代、異なる価値観を持つ人たちとコミュニケーションを取るときは意思の疎通が図れればいいと考えようと思う。
でも、文化としての日本語と私のアイデンティティーを託した日本語という部分では、自分の美意識に照らしながら日本語と付き合っていくだろう。
これが、現時点での私の日本語との付き合い方マニュアルだ。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
らうす・こんぶのnote:
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