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「PLAN75」は福音かもしれないと思った

少し前に「お年寄りが多い街」というエッセイを書いた。それまであまり気に留めたことがなかったお年寄りの姿が急に気になり始めたのだ。そう気付いてから、ますますひとりで歩いているお年寄りが目につくようになった。杖をついて歩いている人が多いことに改めて驚いた。押し車や杖を使っていなくても、おぼつかない足取りでゆっくりゆっくり歩いている人もよく見かける。でも、周囲にそれを気にかけている様子はない。目に入らないのだろう。少し前の私のように。

お年寄りの姿が急に視界に入ってくるようになったのは、その先に遠くない自分を見てしまうからだろうと、はじめは思った。でも、それより、ひとりで歩いているお年寄りの姿が寂しそうなのがとても気になる。その先に自分の姿を見ているにしても、今のところ、まだそっちの方の実感はない。

数日前、クリーニング店に行った。カウンターの前には身長が140センチくらいの小柄なおばあちゃんが向こうを向いて立っていて、鞄の中をしきりに探っていた。後ろ姿しか見えなかったが、おばあちゃんはベージュのコートを着てリボンのついた上品な帽子をかぶっていて、私は母を思い出した。

おばあちゃんの足元に巾着が落ちていた。私が「これ、落ちていましたよ」と言ってカウンターに置くと、おばあちゃんはこちらを振り返ることもなく、「ああよかった。この中に(クリーニング店の)カードが入っていたの」と言ってお店の人に差し出したが、お店の人は「もうお代はすみましたから大丈夫ですよ」と言った。カードがなくても、名前とか電話番号をいえば受付はしてもらえるので、その時点ではカードはもう必要なかったのだろう。

それから、後ろに私が立っているのに気付いているのかいないのか、まだ店の人と何か話していたが、ようやく「それじゃ」と言って店を出て行った。リュックを背負い、手にはトートバッグを下げ、キャスター付きの小さめのスーツケースを引きながら。

おばあちゃんは80歳くらいに見えた。クリーニングに出す衣類を運ぶために旅行にでも行くようなスーツケースを引いてきたのだろうか。おそらくひとり暮らしで、洗濯物をクリーニング店に運ぶのを手伝ってくれる人はいないのだろう。いつまでクリーニング店に自分で洗濯物を出しに来られるだろう。クリーニング店に来る度にそんなことを思って、心細くなっているのではないだろうか。

小さな体で3つも鞄を持って立ち去る後ろ姿は寂しく、とても頼りなげに見えた。私が後ろで待っているのにクリーニング店でお店の人と長々と話していたのも、誰でもいいから話したいという気持ちがあって立ち去り難かったのかもしれない。

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倍賞千恵子主演の「PLAN75」という映画が去年公開された。ネットでこの映画のあらすじを読んだ時、ぜひ、見たいと思った。まだ見ていないので、この映画について何かを言うのは時期尚早かもしれないが、そのあらすじを読んだり予告の映像を見ても驚きはしなかった。

数年前、私と同じように長年フリーランスで書く仕事をしてきた同年代の友人が、将来について、嘆くでもなく、不安がるでもなく、人ごとのようにさらっとこんなことを言ったことがあった。

「フリーランスだから老後は年金だけじゃ暮らせないし、みんなどうするのかしらね。私の友達は自殺という選択肢があるとか言ってたけど」

私は、

「そうだね」

と応えた。彼女が言いたいことはよくわかった。ひとりで生きていくのだろうなと思った頃から、私の頭のどこかにぼんやりとそういう考えが住みついている。また、私たちが後期高齢者になる頃には、そういう最期を選択する人が増えるという未来もありうるという気がしていた。客観的に考えて(いいか悪いかではなく)、このまま行けばそれは自然な成り行きに思えるし、口には出さないけれど、私の友達の中にもそんなことを漠然と考えている人はいると思う。みんな、そういう選択をしないですむように努力はするだろうが。

「PLAN75」はそういう私(たち)の視界に抵抗なく入ってくるテーマだった。というより、避けて通れないテーマというべきかな。私は小さくても希望があれば生きていけそうな気がするが、そういうものが全く見つけられなくなってしまった時、それでも生き続けられるかどうか、わからない。そうなった時、「PLAN75」は私の心の拠り所になるような気がした。

他の人がどんな感想を持ったか知りたかったので、note上で、#PLAN75のハッシュタグで検索してみたら、思ったより多くの人が感想を書いていた。社会の役に立たなくなった人に対して不寛容な社会の怖さについて書いていた人が多かったように思う。この映画に出てくる登場人物全て(この制度を選択せざるを得ない人も、この制度を作った人も、人ごとのように考えている人も)が自分であると書いている人もいた。全部読んだわけではないが、ほとんどの人がこの映画に救いのなさを感じていた。

私はこの映画が描く社会がユートピアだなんてもちろん思わないが、私たち(「PLAN75」世代と言ってもいいかもしれない)は半世紀も前からこういう未来に行き着くことを知っていながら、方向性を変えようとせずにこういう未来を選んで進んできた。変えようと思ったら変えられたはずなのに。ということは、どこかでみんな、こういう社会やこういう未来を望んでいたということにならないだろうか。

映画を見ていない時点で書いているので、見終わった時、考えは変わっているかもしれない。変わっていたら、またここに書こうと思う。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

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