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鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパン モーツァルト「レクイエム」演奏会

少し前のことになりますが、2022年10月29日に静岡のグランシップで鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会がありました。

演奏会の概要

静岡グランシップ

プログラムはメインの「モツレク」の前に交響曲第39番という組み合わせ。この演奏会はその翌日に東京オペラシティでも同演目で公演があり、このプログラムでの一連の演奏会の端緒となるもの。

バッハ・コレギウム・ジャパン(以降BCJ)の「モツレク」は既に父の鈴木雅明指揮で鈴木優人補筆校訂版を用いたCDが2014年に発売済み。

BISSA2091

「モツレク」といえばベーム指揮ウィーンフィルという定番中の定番というべき名盤の呪縛から長年逃れられずにいたなかで、ピリオド楽器のプリミティブな魅力によってはじめてこの曲の“重くない演奏”の良さを実感していたところに登場したBCJの演奏は、近年最も良く聴いているもののひとつ。
この演奏は日本人の演奏という点を殊更意識するものではないにしても、どこか感知しえない部分でケミストリーの親和性が共感しやすい理由でもあったかもしれません。

演奏会の2週間ほど前に使用楽譜である鈴木優人補筆校訂版について鈴木優人本人が語る事前レクチャーがありました。
この鈴木優人補筆校訂の特色を校訂者本人から聞く機会(それももちろん日本語で)というだけで大変貴重といえます。

「モツレク」の構成

レクチャーの話をする前に、念のため「モツレク」の構成を確認しておきます。

イントロイトゥス(入祭唱)
 第1曲 レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)
 第2曲 キリエ(憐れみの賛歌)

セクエンツィア(続唱)
 第3曲 ディエス・イレ(怒りの日)
 第4曲 トゥーバ・ミルム(奇しきラッパの響き)
 第5曲 レックス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)
 第6曲 レコルダーレ(思い出したまえ)
 第7曲 コンフターティス(呪われ退けられし者達が)
 第8曲 ラクリモーサ(涙の日)

オッフェルトリウム(奉献文)
 第9曲 ドミネ・イエス(主イエス)
 第10曲 オスティアス(賛美の生贄)

サンクストゥス(聖なるかな)
 第11曲 サンクトゥス(聖なるかな)
 第12曲 ベネディクトゥス(祝福された者)

アニュス・デイ(神の子羊)
 第13曲 アニュス・デイ(神の子羊)

コムニオ(聖体拝領唱)
 第14曲 ルックス・エテルナ(永遠の光)

事前レクチャーの内容

レクチャーは「モツレク」の構成の概要の説明からはじまり、モーツァルトがどこまで実際に作曲していたのかを手書きによる譜面とフラグメントを掲示しながら説明。
曲自体は「ラクリモーサ」の途中までが自筆によるものとされていますが、絶筆は8小節目の途中までという具体的な部分が知れて眼福。
それ以降はメモという形でフラグメントが残されていることにより、曲自体のおおまかな構成はモーツァルトの意思が一応は反映されている、ということになります。
モーツァルトの死により未完のまま残されたレクイエムを完成させ、現金収入を得たいコンスタンツェは、はじめにヨーゼフ・アイブラーに補筆を依頼、その後ジュスマイヤーが補筆し、今日一般に演奏されている版が一応の完成をみた、という経緯。
問題はジュスマイヤーの補筆がどの程度モーツァルトの遺志に忠実であったか?という点ですが、鈴木優人によると、曲の後半に行くに従って疑問符がつく箇所が増えていく、とのこと。
氏によると、「オッフェルトリウム」の「オスティアス」と「ベネディクトゥス」についてはモーツァルトが本当にこのような形にしたかったのかどうか疑念が拭えないとのこと。
そうした経緯もあり、演奏家として音楽の流れや和声などの点で違和感の少ない版を目指した、とのこと。

補筆校訂は基本的にジュスマイヤーの仕事に敬意を払いつつ、アイブラーの補筆があるところまで(「セクエンッィア」の「コンフターティス」まで)は、アイブラーの補筆を参考にし、それ以降は独自の補筆を行った、とのこと。

一聴しただけで素人目にも顕著なのが「ラクリモーサ」の後に「アーメン・フーガ」が追加されていること。
近年の、特にピリオド系の演奏家のディスクで「アーメン・フーガ」を収録したものが増えている傾向にありますが、「アーメン・フーガ」は1962年に発見されたモーツァルト最晩年のフラグメントの中にあり、レクイエムの主題の反行形で書かれている、こうした点からこれが「モツレク」の中に使用される予定の草稿ではないか、とされるもの。
氏によると、曲全体を俯瞰したとき、この曲は「イントロイトゥス」「オッフェルトリウム」「サンクトゥス」という大きな括りの終わりにフーガが配置されているにも関わらず、「セクエンツィア」の終わりにはフーガがない。
「セクエンツィア」の終わりにある「ラクリモーサ」に続き「アーメン・フーガ」を挿入して「オッフェルトリウム」の最初の曲である「ドミネ・イエス」に続けると和声進行上も収まりが良い、とのこと。
既発売のピリオド系の演奏のうち「アーメン・フーガ」を採り入れている演奏の把握できるもののすべてがこの位置に「アーメン・フーガ」を置いていることを踏まえても、説得力のある話だと思います。

一方で「ラクリモーサ」でモーツァルトが絶筆したという事実以上に、これほど人の死を悼むに相応しい曲はなく、悲しみの底に消え入るようにフェードアウトする「ラクリモーサ」の後に、言ってみれば能天気なまでに明るい「アーメン・フーガ」が更に続くことには、長年「アーメン・フーガ」なしで親しんできた私のような旧世代的には未だに違和感を禁じ得ない。
しかもジュスマイヤーの「ラクリモーサ」の終わりの歌詞は「アーメン」で閉じられるのが、鈴木優人補筆校訂版では「アーメン」を削除し、その前の「レクイエム」で閉じるように変更されているわけです。
これは「アーメン・フーガ」を挿入するのであれば、「アーメン」が被ることから当然の変更ではあるのですが、やはり長年親しんできた「ラクリモーサ」の終わりが「アーメン」ではなくその前の「レクイエム」で終わるのは少々居心地が宜しくない。
ジュスマイヤーの「ラクリモーサ」の終わりはまさに悲劇の絶頂にあり、音楽がここで一段落する終結部が「アーメン」で終わることの劇的な効果はジュスマイヤー版の最も印象的な部分だと思います。
(ちなみに、ホグウッドが採用しているモーンダー版では、「ラクリモーサ」の9小節目以降を新たに作り起こし、そのあとに壮麗なオーケストレーションを加えた「アーメン・フーガ」を挿入することでこのあたりの違和感を払拭する試みがなされていたりする)
もちろんこれは単なる個人的な刷り込みの結果であるともいえるわけですが、モーツァルトがもう少しでも長生きしていたら、ここをどのように作曲したのだろうか?という問いは叶わぬ願いながら大いに関心のある部分といえます。
そんなわけで「アーメン・フーガ」自体は大変美しい曲で、嫌いではないのですが、なかなか違和感を払拭するのは難しいところ。
今回のレクチャーで最大の関心ごとはこの「アーメン・フーガ」に纏わることだったので、この曲がここに収まることの根拠について、相応に納得のいく説明を聞けたことは大きな収穫でした。

このほか、通奏低音の見直しや歌詞の割り付けの変更など、興味深い例示がいくつかありましたが、詳細は失念。

講演の他にモーツァルトのK.511のロンドとリスト編曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の演奏がありました。
リスト版の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ははじめて聴きましたが、いかにもロマン派風アレンジで驚愕しました。
原点志向と思われる古典派の専門家が濃厚トッピングのリスト版のモーツァルトを演奏するというのは、かなり意外でしたが、これはこれで楽しめました。

当日の演奏会

以降、当日の演奏会の感想です。

交響曲第39番

オケは弦楽器が1stVn5、2ndVn5、Va4、Vc2、Cb2のごく小さな編成。
これは「モツレク」でも同じ。

モダン楽器と比べて当然音量は小さめで、この人数のモダン楽器のオーケストラと比べても6割から7割程度の音量。
前から12列目中央での鑑賞でしたが、最大1200席程度のグランシップ・中ホールでは少々ホールが大きすぎな印象。
オケの規模から言って静岡なら618席の静岡音楽館AOIのホールの方が相応しいと感じます。
過去の静岡での演奏会は基本的にグランシップで行われているようなので、集客数や施設との親密さも選ばれている理由なのかもしれません。
ホール内はホワイエの雰囲気など清潔感があってなかなか好印象。

演奏はいかにも古楽器オケらしい引き締まった響きにキビキビしたテンポで好感が持てました。
意外だったのは第3楽章のトリオの終わりでフェルマータをかけて音楽を一旦止めたこと。
ピリオド楽器の演奏は数多く聴いてきましたが、トリオの終わりで音楽を止める演奏はこれまで聞いたことがありません。
なにか根拠のあってのものなのか、それとも指揮者の好みなのか分かりませんが、トリオはメヌエットと調も同じで淀みなく流れる音楽なので、そこで一旦止める意味はあまり感じられませんでした。

「モツレク」

休憩の後は本命の「モツレク」
合唱は20人ほどで、オケの人数にマッチした丁度良いバランスだと思います。
この人数ならそれぞれの声の粒立ちもはっきり聞こえ、ソリストとのバランスも良い。
ソリストはアルトの代わりにカウンターテナー。
単純なイメージの問題かもしれませんが、この時代の宗教音楽にはカウンターテナーの方がしっくりくる気がします。
バスのみ外国の歌手の参加でしたが、実演を聞くとソプラノとバスの役割は非常に重要で、コロナ禍のまだ続くこの時期にわざわざ海外から招聘することの意味は大きいと思いました。
四重唱での絶妙な掛け合いや合唱との音の重なり具合の絶妙さは実演ならではの魅力。
これはオケの規模が小編成であることのメリットも大きいと思います。
演奏そのものの印象は鈴木雅明指揮のCDと大きな違いはないものの、静謐な響きの中に込められる死者への弔いの音楽の神髄が伝わる名演だったと思います。

アンコール

プログラム終了後、アンコールとして「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の演奏。
レクイエムの後にアンコールは基本的には不要だと思いますが、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は「モツレク」の後に演奏が許される殆ど唯一の曲と言ってよいでしょう。
思いがけずモーツァルトの楽曲の中で最も美しい音楽を堪能出来て、非常に満足度の高い演奏会でした。

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