見出し画像

「ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白」

ブルンヒルデ・ポムゼル/トーレ・D・ハンゼン著 森内薫/赤坂桃子訳 紀伊国屋書店 2018年6月

本書はゲッベルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルが2013年(当時103歳)に語った30時間に及ぶインタビュー+解説を収録したもの。
同名の映画の日本公開に併せ、日本語訳の書籍版が出版されたものです。
映画はこれに当時のニュース映像などを加えて113分に収めたものなので、当然書籍版のほうがポムゼルの発言の収録量は多いということになります。

彼女はベルリン郊外の普通の家庭に育ち、保険の仲介業を営むユダヤ人弁護士のところで秘書などをしたのち、ベルリンの国営放送局に勤めることになった。放送局に入局するにあたり、ナチスに入党した方がよいと勧められて1933年にナチスに入党。その後、1942年に宣伝省に移り、ゲッベルスの秘書の1人として終戦まで勤務。終戦時はベルリンから脱出することなく宣伝省の地下壕でソ連軍に拘束され、戦時中は強制収容所だったブーヘンヴァルト収容所などで5年間の抑留のうえ釈放された、とのこと。2017年1月27日没。

戦後69年目にして今回のインタビューに至ったわけですが、映画の本編を見ても、103歳とは思えないほどポムゼルの発言ははっきりしており、記憶している当時のことを詳細に語っています。
生い立ちからナチス入党、宣伝省での勤務にゲッベルスの印象、終戦時の出来事から抑留、これまでの心境など、さまざまなことを語っていますが、終始一貫していることは

・当時は生活のことが精いっぱいで政治には無関心だった
・ナチスの入党は職業上の必要からだった
・職務に忠実にだっただけで積極的なナチス信者ではなかった
・ゲッベルスの秘書になったのは速記者としての能力を認められただけ
・ユダヤ人の弾圧などは多少は見聞きしていたが、大量虐殺があったことなどは抑留から解放されて初めて知った

といったところです。
全体を通してみると、やはりアイヒマンとの類似性を想起しないわけにはいかないでしょう。
アイヒマンは忠実なナチス信奉者ではあったが、官僚的実務執行者であって、ホロコーストの主導的推進者ではなかったとの主張を繰り広げ、ハンナ・アーレントから「悪の凡庸さ」と評されたことで、その特異な立ち位置で知られていますが、ポムゼルもゲッベルスの秘書というナチスの枢要な部分に入り込んでいたとはいえ、その立場は従属的で職業上の要請であったとの主張で一貫しています。
戦後約70年という期間を経てナチスに対する自己評価が世間一般の認識に対して齟齬のないように微妙に修正されているのはないか?という疑いは一定程度ありますが、そもそもこのインタビューの目的はポムゼルの罪を断罪することにあるのではないことに留意しなければならないと思います。

実際のところ、詳細なインタビューの内容を聞いてみると、宣伝省でゲッベルスの秘書という驚くべき職務に就いていたわりには、中に居た人にしか知り得ない情報といった類の話は非常に少ないと感じました。
映画でも語られているような、ゲッベルスが爪の手入れを入念に行っていた、といったある意味女性らしい視点は垣間見ることはできますが、それ以外はゲッベルスの私邸で夕食に招待されたとか、1943年2月18日の「総力戦演説」にほかの秘書と一緒に参加したことなどが語られる程度です。
ゲッベルスの「総力戦演説」については戦時中のゲッベルスの演説の中では伝説的なまでに有名なものですが、それについてのポムゼルの感想は、いいようのない興奮の渦に驚いた、後方の親衛隊員に促されて拍手をした、といった非常に傍観者的・従属的な内容で、むしろこの距離感に違和感を覚える内容となっています。
総力戦演説でのゲッベルスの発言を聞いていると、ナチスに明確に否定的な立場の者でさえ、その扇動的な言葉の魔力に引き込まれそうになる。まして当日にあの場に居て、身近に良く知る上司が行っている大演説を聞いて傍観者的な醒めた気分でいられるものだろうか?
ポムゼルの発言内容はインタビューの中で繰り返し語られる自己弁護の趣旨に非常に忠実な描写で、その主張を強化するためのバイアスを感じないわけにはいかないエピソードではないかと思います。
このような目で見てみると、宣伝省内でゲッベルスをはじめ高官のメモや発言といった一次情報に接していた機会が少なからずあったと推察される当時の記憶については非常に限定的にしか語られていない、という事実は、なにがしかのバイアスが働いているのではないかと考えざるを得ないのです。

実のところ、もう少し突っ込んだ当時の記憶やエピソードを期待していたという意味では肩透かしといえなくもない内容でしたが、改めて全体を俯瞰してみると、この歪な記憶の偏りや、長い年月を経て形成されたであろう自己弁護の理路整然とし過ぎる内容そのものに意味があるのだ、というところに気が付くことになるのです。
ナチス党員であることが職業上の有利となることについては指揮者のカラヤンなどの例を見るまでもなく、当時はありふれたことだったと考えられますが、ポジティブなナチス信奉者でない市井の人々がその運動に対し一定の関与をもつことで下支えした、という事実は非常に重要な問題と考えます。
ポムゼルは宣伝省内で反ナチスの抵抗運動「白バラ運動」でギロチンに掛けられたショル兄妹の裁判記録を手にする機会を得ますが、職業上の守秘義務からその内容を見ることなく金庫に仕舞った、とインタビューに答えています。
抑圧的体制内に居るという認識がなかったとはいえない内容であり、積極的信奉者でなくても社会正義に反する政策に対して目を瞑る=あえて遠ざけるということが行われていたことを示す一例といえるでしょう。
ポムゼルが答えているように、あの体制下で異を唱えることは不可能だった、という非常に大きな事実があるにせよ、こっそり見る機会があったのにそれを見ることなく遠ざけた、という点は抑圧的体制下では個人の良心的行動にまで制約が及ぶという点は重要だと思います。
本書の解説にはドイツ国民の40%はユダヤ人の大量虐殺を何らかの方法で知っていた、との調査結果(これは「ホロコーストを知らなかったという嘘」という書籍に纏められているので、次の機会に感想をUP致します)について触れられていますが、「見て見ぬふり」が国家の悪行を留める抑止力とならないばかりか、それが暗黙のうちにその所業を容認し、推進に力を貸しているという事実を我々は認識する必要があるでしょう。

このことは同じく政治的無関心が生むデメリットについての非常に大きな警鐘となります。
ポムゼルが言うように政治的に無関心であること自体は断罪されるべき要素とは言えませんが、ナチスのような抑圧的勢力の台頭に対してNOと言える積極性は民主主義を守るうえでは非常に大切、というより不可欠だと考えなければならないでしょう。
これは今日のように世界中でポピュリズムの嵐が吹き荒れる時代にはなお一層重要な要素であることは言うまでもありません。

映画『ナワリヌイ』の最後にナワリヌイが観客に向けた言葉の中に
「悪が勝つのはひとえに善人が何もしないからだ」
との発言が出てきますが、声を出すことの重要さが時代を超えて大切なものであることを如実に表した言葉だと思います。

ヒトラーも当初のイメージは荒唐無稽な国粋主義者であり、その単純化された主張に一定程度賛同した、もしくは否定的意見を持たなかった一般大衆の投票行動が最終的にヒトラーを政権に押し上げた、という歴史的事実はトランプのような男がアメリカ大統領にまでなってしまうという現実に非常に多くの点で重なるものです。

ポムゼルのインタビューの今日的価値は、政治的無関心や社会正義に反する動きに対する一種の不感症という個人の行動規範が数として大きな勢力を占めることで陥る危険性を如実に示している、という点にあるのだと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?