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酒をいっぱい飲んでいる

酒量が日に日に増えている。わたしは特別酒好きというわけでも、酒に強いというわけでもない。ひたすらに強い酒を求め、空きっ腹にデパスと共に投げ込み、気持ち悪くなったらトイレに駆け込み血痰が出るまで吐いて、それでもなおアルコールの残存した、肝臓を確実に痛めつけた証の赤黒い顔で過去の失態を振り返り泣きじゃくるのが一連の流れだ。楽しくもなんともない。むしろ痛いし苦しいし、確実に無茶をしている。でもやめられないのだ。
大人になると、何か過ちを犯しても親のように叱ってくれる人などいなくなり、周囲の人は白い目を向け自ずと離れていく。今笑顔で話している人も、一ヶ月後にはわたしを拒絶しているかもしれない。無視をしたり、SNSをブロックしたり、今までの態度が嘘のような冷たい目で「二度と会いたくない」と突き放してくるかもしれない。わたしはそういう恐怖と隣り合わせの世界で生きている。この無茶ともいえる飲酒は、人間関係を断絶させるきっかけとなった迂闊な自分を罰する存在なのだ。酒で体温調節が効かなくなり、赤黒い顔で寒い寒いと震えていても、息が上手くできなくても、全て罰と捉えれば納得がいく。わたしは自分が許せない。経験則からリストカットのような傷跡が残る自傷はしないと誓っているが、これもある意味自傷に近いものなのかもしれない。「人間社会で他者から白眼視され、軽蔑され、罰を受けて当然の人間だ」と自分を貶めておかないと気が済まないのだ。わたしが酒を飲む時は、必ず一人で自宅で飲む。外で飲むと確実に他人の手を煩わせてしまうためである。「他人に迷惑をかける」ことは、多種多様な『他人』と共存しなければならないヒト社会において何より重い罪である。そういう意味でも、こと飲酒においてわたしは独りでありたい。大人にもなると完膚なきまでに自分を罰することができるのは自分しかいないのかもしれない。あるいはこの苦痛まみれの人生が既に罰なのかもしれない。罰からの解放は即ち死であるが、電車に飛び込んでもダイヤを乱すだけで天使にはなれないのが悲しいところだ。
ところで、わたしは鬱病だが一人暮らしをしている。一人暮らしができるレベルの鬱病なのだから、全体で見ると軽度ではあるのだろう。最重度の鬱病ともなるとまず入院で、食事もできないから点滴だし、トイレにも行けないからオムツ生活だという話も聞いている。それはそれで大変だろうし苦しいだろうが、それは今のわたしの苦しみを軽減するものではない。重度でも軽度でも鬱病は鬱病だし苦しいものは苦しいのだ。薬を飲むとある程度動けるから「元気そうに見える」し、休職も「サボっているように見える」のが悲しいところで、実際は主治医から就労の許可が下りないと復職できないし職場もわたしを働かせられない。わたしは現に主治医に「今の精神状態では働くのは厳しい」と言われている。前記事で精神的にショッキングな出来事があったと書いたが、それがまだ尾を引いているのだろう。父さん母さん、あれからわたしはSSRIが1錠増えました。悪夢ばかり見ています。全部吐くまでが飲酒です。
いつか酒を楽しめるようになりたい。人前で、外で酒を飲んでも恥ずかしくない人間になりたい。もう少しだけ待っててください。

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