『バナナフィッシュ』アッシュにとって英二は何故特別たりえたのか?

第1話を見た時点では、空気が軽すぎて何だかなあだった『バナナフィッシュ』のアニメですが、第2話と第3話の演出がとても良くて、何だかんだで興味深く観続けてしまっています。

アニメ第2話で印象的に描かれたのは、英二が錆びたパイプで塀を飛び越えるシーンです。ここと第3話の病室のシーンを見て、私はやっとアッシュにとってどうして英二は特別な存在となったのか?という長年の疑問に答えが出せました。

『バナナフィッシュ』は、国と時代に虐げられてきた者たちが、それに抗う物語なんですよね。アッシュはもちろんですが、女だというだけでついでのように慰み者にされたマックスの妻や、殺された母とともに一族の繁栄のための道具扱いをされてきた月龍、そしてマフィアの陰謀の前にたやすく消されるストリートキッズたち。原作の舞台である80年代は、そういった生まれ持った身分を覆すことは今よりもっと難しく、地べたで生まれた者は一生踏みにじられるだけでした。

類稀なる頭脳と美貌を持ちながら、貧しい田舎で生まれ育ったために、踏みにじられる側に甘んじるしかなかったアッシュ。コルシカ・マフィアのボスに気に入られたところで、彼には夢も自由もありません。それならまだストリートで仲間たちとつるんでいた方がまし…と思っていたかどうかは分かりませんが、地べたで自分に許された最大限の自由を、日々自嘲気味に謳歌していました。

そんな彼が、ある日初めて夢を見ます。日本から来たという1人の少年に。

少年はアッシュの目の前で、高い壁を見事に飛び越えて見せたのです。

それまではせいぜい、今まで出会ったことのない平和ボケした日本人、あるいはちょっと変だけど何となく気になる奴…程度にしか思っていなかったでしょう。しかしその瞬間、アッシュは彼に夢を見たのです。高く自由に空を飛ぶという夢を。

何もいいことがない人生でも、それを想うだけで幸福になれる。そんな夢がひとつくらいあってもいいじゃないか? 自分は飛べないけれど、英二が笑顔でいられる明日のためになら、何を犠牲にしたってかまわない

――そういえば、『ライ麦畑でつかまえて』もJ.D.サリンジャーの作品ですね。

と考えると、『バナナフィッシュ』はアッシュと英二の魂が惹かれ合う物語だというのは少し違うような…。少なくとも主題ではないような…。

人並みのささやかな夢も見られなかった少年が、偶然のめぐりあわせで出会った異国の少年に、最初で最後の夢を見る。夢を見ている間は、ただひたすらに幸福だ。そして彼はその幸せな夢の世界へと永遠の眠りについた…。

だからこそ、「いい夢みたいね」なのでは?

そうとらえられなかったとしたら、それが少女漫画の読者層の傾向なのでしょうか? 例えば時代劇や西部劇、ヤクザ映画なんかでは普遍的なテーマですよね。不勉強なので明言はできませんが、文学作品にも同様のテーマを語ったものは少なくない気がします。

私がこう考えたのは、作品自体(特にラストと番外編)は好きだけど、アッシュにも英二にも全く萌えないせいかもしれません。まあ読んだ人の数だけ答えはあるのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?