「『幸色ワンルーム』は誘拐を美化している」とは「私は」思わない

『幸色ワンルーム』がドラマ化されるのだそうですね。

私は『幸色ワンルーム』は数話読んでやめたんですが、ああいう話が好きな人がいるのはよくわかる。自分ももっともっと幼いころなら心にヒットしたかもしれない。あるいは逆に何だかんだと自分の「嫌い」を正当化しつつ、否定しまくっていたかもしれない。

そしてTwitterを見るに、どうやらドラマ化に際して論争が巻き起こっているらしい。その論点は、

「『幸色ワンルーム』は誘拐を美化しているか?」
(セカンドレイプ的な論争もあるようですが、それは当事者に聞くしかないので私は触れないでおく)

私は、『幸色ワンルーム』が誘拐を美化しているとは思いません

多分、ああいう愛(であったり勘違いであったり思い込みであったり)は、あるところにはあるんじゃないか。と、私は思いました。家庭環境がいびつ+誘拐なんて状況でどんな心理に陥るかなんて、個人によって違うだろうし、実際経験しないとわからないじゃないですか。それに作品自体は、特別な2人の話ですからね。それは美化ではなく、特殊なパターンを物語にしただけです。

仮に(あくまで「仮に」ね)実際の事件にインスパイアされて描いたものだとしても、あれだけ独自のキャラクター設定をしたら別物でしょう。完全なオリジナルですよ。事件を美化しているというのはちょっと難癖つけすぎ。と、私は思います。

で、思ったんですけど、『幸色ワンルーム』がTVドラマ化されるのを危惧する人たちの気持ちというのは、「誘拐を美化している」という表現では伝わらないのではないでしょうか。

『幸色ワンルーム』が誘拐を美化しているとは私は思わないけれど、「誘拐」という刑事事件になるようなテーマを扱っていながら、内容が薄っぺらいなとは思いました。でもそれは作品のマイナス要素とは限りません。むしろプラスに働いたからこそヒットしたのでしょう。バッチリ狙いを定めて購買層を撃ち抜いていますよ。

しかしその薄っぺらさは、現実の誘拐という事件への認知をゆがませるのではないか?

というのが、『幸色ワンルーム』アンチ(ドラマ化反対派含む)の不安の正体ではないでしょうか。

「薄っぺらい」というのは、誘拐の危険性や主人公2人以外の事情や思惑がほとんど描かれていないリアリティがないということです。リアリティが作品に必ずしも必要なわけではありませんし、『幸色ワンルーム』はそれを排除することで読者を陶酔させました。それは作品としての成功です。

しかし“陶酔”というのは、端から見ると極めて危なっかしいのです。陶酔している人間て、本当に何をやらかすかわかりませんからね。だから、誘拐する予備軍とされる予備軍を、この作品が煽ってしまうように感じてしまうんですよね。

そんな気持ちを攻撃的に表したのが、「『幸色ワンルーム』は誘拐を美化している」という批判なわけですが、それも非論理的な決めつけだなあ。と、私は思います。あと被害者を思いやってるていで非難している人も多いけど、そうやって他人の立場を借りるのってどうだろう…。と、私は思います!

まとめ。
●『幸色ワンルーム』が実際の事件や誘拐を美化しているというのはさすがに決めつけだと「私は」思う。
●しかし内容の薄っぺらさと、それを危なっかしく思う気持ちは理解できる。
●何にせよ正義ぶったり他人の立場を借りたりせず、「自分はこう思う!」と言えないものなの?

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