見出し画像

『ユリシーズ』(文学:二日目)

以下の本を1日1ページ読むだけで、世界の教養が身につくらしいので、本当かどうか試してみます。

二日目は『ユリシーズ』について。

■ ■ ■

1922年に出版されたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(Ulysses)は、1913年から1927年までにかけて刊行されたマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀を代表する長編小説と言われています。

ちなみに1922年は日本だと大正11年で、アインシュタインが来日し、芥川龍之介が『トロッコ』を書いています。世界では、ソビエト連邦が成立した年でもあります。

で、このアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスが書いた『ユリシーズ』なんですが、ホロメスの『オデュッセイア』をモチーフにしていて、『オデュッセイア』の主人公であり、ギリシャ神話の英雄でもあるオデュッセウスがラテン語でUlixes(ウリクセス)、あるいはUlysseus (ウリュッセウス)とも言って、これが英語のUlyssesの原型になったと言われています。

ちなみに、今私がこの文章を書いているエディタの名前もUlyssesです。オデュッセウスのように力強くあれ、という願いが込められているというよりは、ジョイスの『ユリシーズ』のような偉大な作品を書こうぜ、みたいなメッセージが込められているのかもしれません。まあ、ツールが便利であるなら、どちらでも構いませんが。

さて、『ユリシーズ』は意識の流れにフォーカスをおいて執筆されたというのが特徴の一つで(他にもわんさか特徴があるのですが)、その点が本作をモダニズム文学の象徴的存在へと押し上げているのは間違いないでしょう。

これによってジョイスは、登場人物が心の中で思ったことを、順序づけたり整理したりしようとせず、そのままの形で提示しようとした。この技法はモダニズム文学の特徴となり、ヴァージニア・ウルフやウィリアム・フォークナーなど多数の作家たちに影響を与えた。

こういうモダニズム的な変転については、たとえばジョン・ヒッグスが『人類の意識を変えた20世紀』でさまざまな角度から分析していて、その本の中でヒッグスは『ユリシーズ』とゲーム『グランド・セフト・オートⅤ』に類似点を見出しています。

善良なレオポルド・ブルームとゲームの主人公の荒くれ者たちには一見なんの共通点もなさそうに見えますが、ある一つの物語を読者(あるいはプレイヤー)が追いかける構造になっておらず、複数の視点(あるいは物語の経路)が入り乱れるという点においてはたしかにこの二つの作品は共通点を持ちます。でもって、それがモダニズムのスタンスだというわけです。

もちろん、そういった野心は結構なのですが、端的に言ってこの『ユリシーズ』は読みやすい作品とは言えません。文学を好む人100人が、9割この作品を偉大な作品と称えたとしても、決して好んで読み漁ったりはしないでしょう。

そうなのです。この『ユリシーズ』は、文学好きの中で「ああ、ユリシーズね」というだけで話が通じるほど著名な作品でありながら、その実本当にその人が最後まで読んだかどうかについては踏み込まない方がよい作品でもあります。だって、そう尋ねる自分だって読んでいないのかもしれませんし。

『ユリシーズ』は、あまりにも有名なので、それに言及する作品や論考はたくさんあります(『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』だってその一冊です)。私たちはそれらに触れることで、間接的に『ユリシーズ』を読んだことになります。「そういうのは読んだことにはならない」という方は、ぜひピエール・バイヤール の『読んでいない本について堂々と語る方法』をご一読ください。読書という行為を、前の前にある一冊の本との関係性ではなく、その背後にあるBooksネットワークの網の目に入り込む行為だと捉えなおせば、「読んだ/読んでいない」という線引きは極めて曖昧な状態へと落ち込んでいきます。

えっ、そういう私は『ユリシーズ』を読んだのかって。それはご想像にお任せするとしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?