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「痛みを知っている自分だからこそ、出来ることがあると思うんです」心の傷はやさしさへ

過去に虐待を受け、今を強く生きていく人たちを発信していくインタビューメディア「RASHISAストーリーズ」。第4回目は、バイソンタクミさんに登場いただきました。生まれた時から虐待と隣り合わせで生きてきたタクミさん。学校でのいじめや事故、さらにはうつ病を経験しながらも、なお前を向いて努力を続けます。

バイソンタクミ|1991年生まれ。現在は、ALSや事故被害者の支援を中心に活動。ボディバランスを競い合うフィジーク競技では各種大会に出場している。
Twitter:@BisonTakumi

 

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【家庭環境、そしてお金に振り回された幼少期】

――どんな幼少期を過ごしてきましたか?

僕が生まれる前に両親が離婚して、母親と祖母に育てられました。母から暴力を受けていたのですが、アルコールとギャンブル、薬物依存を抱えていたことが理由です。

――どんなときに暴力をふるわれていたんですか?

アルコールや薬物でスイッチが入った時ですね。なので、いつ暴力が始まるのか分からず毎日怯えながら生活していました。しかも、母だけではなく祖母からも暴力を受けていたんです。

――家庭内に味方がいなかったんですね。

はい。特に、祖母からの暴力は肉体的にも精神的にも堪えるものでした。印象的なのは、小児喘息を患っていた3~5歳くらいの記憶です。夜になると発作がうるさかったのか、僕の頭をティッシュ箱の角で殴られました。母から暴力を受け、誰かに助けて欲しい時に突き放されてしまったのは、本当に悲しい出来事でした。

――お母さんとお祖母さんは手を組んでタクミさんを攻撃していたんでしょうか?

いえ、母と祖母はお互いを嫌っていたので、それはないと思います。むしろ、どちらかの言うことを聞けばどちらかに反対することになり、結果どちらかから殴られる。ずっと板挟みの生活でした。なかでも、お金関係のいざこざはひどいものでした。母には祖母の、祖母からは母の口座からお金を下ろしてこいと命令され、もちろん悪いことだと分かっていたので断るんですが、その後には必ず殴られていましたね。

――幼いタクミさんを利用していたんですね。小学校に入学してから生活の変化はありましたか?

結論から言うと、良い変化はありませんでした。小学校5年生の終盤に母が再婚する予定で、僕は6年生への進級とともに転校を予定していました。もちろん友達も転校のことは知っていたので、終業式の日にお見送りをしてくれたんです。ところが、その直後に母の再婚は白紙に。転校の予定もなくなり、4月の始業式に登校しました。当然、クラスの友達は全員ポカン顔。転校したはずの僕が新学期に登校してきたら驚きますよね。結果的に、これがいじめへ繋がってしまいました。

――なぜいじめにつながってしまったのでしょうか?

おそらく、普通じゃない家庭環境が伝わったからだと思います。友達からは「何で学校に戻ってきたの?」と詰め寄られ、しばらく異端児扱いでしたね。

――同級生たちも敏感な時期ですもんね。

それ以降、家に居場所が無いと悟って家出を繰り返すようになりました。溜まったストレスの解消法も持ち合わせていなく、ただ我慢するだけだったのが余計辛かったです。また、中学校に上がるまで離婚した父のことを「亡くなった」と聞かされていました。だから、暴力やいじめにあっても「死んだ父に心配かけないようにしないと」と思う一心で気持ちを押し殺していました。

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【「それ」と呼ばれ、自らを守ることを意識した中学時代】

――本当に心細かったでしょうね…。学校の先生は家庭環境やタクミさんの状況は知っていたんですか?

それは知っていましたし、家出をやめるきっかけをくれたのも先生です。「このまま地元の中学に上がっても自分のためにならない」とアドバイスをくれて、私立中学の受験を勧めてくれました。無事合格して中高一貫の学校へ進学したんですが、貧乏だったので、中学生ながら新聞配達や土方のバイトをして自力でお金を稼いでいました

――ハードな中学生活だったのですね。中学校では周りに馴染めましたか?

そこそこは馴染めましたが、私立なだけありお金持ちの家庭が多く、金銭面ではバカにされることもありましたね。僕は当時から読書が好きなんですが、本屋さんで本を買うお金がなく、百円ショップで宮沢賢治などメジャーな小説を買って読んでいました。表紙に大きく書かれた「100円」の文字を目ざとく見つけた人にはチクチク言われていましたね。

――子供の純粋さが裏目に出た感じでしょうか。

今となっては「なんてことない」と思えるんですが、当時は心を痛めました。僕の家庭環境を知っている人からは「It」とあだ名をつけられたりもしましたね。

――「It」?

アメリカに虐待をテーマにした「"It"(それ)と呼ばれた子」という小説があるんですが、その主人公の境遇を僕に照らし合わせてあだ名にしていたようです。

――ひどい…。その頃、家庭では変わらず虐待があったんでしょうか?

中学生になっても相変わらず暴力は続いて、時には殺されかけることもありました。でも僕にとってはターニングポイントとなった時期で、体を鍛えるためにトレーニングを始めたんです。

――それは暴力から身を守るために?

はい。母に膝蹴りで肋骨を折られることもあり、「これは体を強くするしかない!」と一大決心しました。もともときっかけになったのは当時全盛期だった山本KID徳郁さんで、トレーニング以外にもメンタルマネジメントなどを参考にしていましたね。

――山本KID徳郁さんが目標だったのですね。体を鍛えることで周りの見る目に変化はありましたか?

学校では認めてもらえるようになって友達も増えました。家での暴力もだんだん減ったように思います。ただ、「なめられないように」という気持ちから、喧嘩が絶えない時期でもありました。周りは勉強や部活に勤しんでいたので、虚しさと羨ましさを感じる中学時代だったように思います。

――高校進学後はタクミさんの心情に変化はありましたか?

中学生に比べると、勉強もバイトも手を抜かずにやるようになりました。「こいつは家庭環境が良くないから何もできない」と思われることが嫌で、周りの友達や先生にも助けてもらいながら努力しました。でも、家庭環境の問題は切っても切れず、高校三年生で大きな壁にぶつかったんです。それが大学進学でした。ほとんどの人はそのまま大学へ進みますが、家の経済状況を考えればそれはできなかった。高校自体もバイト代で工面してきたので、僕自身かなり疲弊してしまって。次の4年間も頑張れるメンタルではありませんでした。

――中学生の頃からバイト漬けですもんね。

漠然と「大人になれば何か変わるはず」と信じていて、それが将来への希望でした。なので高校卒業後はそのまま就職しました。

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【仕事、健康、そして理解者を失い、うつ病を患う】

――高校卒業後はどんな仕事をしていましたか?

最初に就いたのは介護職です。その道を選んだのは、祖父が亡くなったのがきっかけです。僕の家で、唯一祖父だけは僕に暴力を振るわなかった。今まで色んなことを僕にしてくれたのに、「死ぬ間際は何も力になれないんだ」と知って自分の未熟さが不甲斐なくて…。「お年寄りの力になりたい」という一心で介護を仕事に選びました。

――恩返しの意味合いもあったのですね。

働きがいがあって、大好きな仕事でした。でも、22歳の時、トラックとの衝突事故に巻き込まれ、生活がガラッと変わってしまったんです。思うように体は動かないし、とても介護を続けられる状態じゃなくなってしまいました。一言で言えば地獄の始まりです。これがきっかけになって結婚を控えていた彼女とも破局し、4年半のリハビリに専念することになりました。

――1回の事故で全てが変わってしまったのですね…。

同級生たちは大学4年生で就職先も決まり、自分の時間が取れる一番楽しい時期だったと思います。みんなが遊んでいる姿を見ては、一人焦っていました。辛いことは今までもたくさんありましたが、ここからが一番壮絶だったかもしれません。

――虐待を超える辛い出来事…。想像できません。

4年半のリハビリ生活の間に、うつ病を患いました。大好きな介護の仕事と彼女を同時に失った僕は、生きる意味が分からなくなってしまったんです。その末に自殺未遂を図るなんてことも。何かを考えるとネガティブに引っ張られてしまうし、考えることすら嫌になってしまう。靴紐を結ぼうとしてもなかなか結べなかったほどです。

――今まで数々の逆境を乗り越えてきたタクミさんですらうつ病に…。そこから、どうやって乗り越えたのでしょうか?

思考が鈍くなりながらも、漠然と「このままじゃ人生台無しだ」と考えていました。「年が明けたら再出発だ」と自分に言い聞かせて、そこだけに集中するよう思考を変えたんです。先輩からも「人生は取り返すことはできないが、盛り返すことができる」と言葉をもらって、もう一度頑張る勇気が湧いてきました。

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【失意からの復活。痛みを知るからこそ出来ることがある】

――その後、どのようにうつ病を克服していったのでしょうか?

かなり時間はかかりましたが、夜勤を続けながら緩く回復期間を設けたのが効いたと思います。少しずつ心が外向きになっていくのを感じていました。元々設定していたゴールよりも少し遅れてしまいましたが、無事に元の生活サイクルを取り戻すことに成功しました。ゆっくりでもうつ病から復活できたのは上出来ですよね。

――そう思います。ということは、趣味のトレーニングも再開できたんですね!

はい。この時以上に体を動かすことが楽しく感じたことは無いんじゃないかと思います。毎日ジムに行くと決めて、人生を謳歌していました(笑)。そうしたら、フィジークをやっているジムの会員から大会に誘われるようになったんです。

――ボディビルのようなイメージでしょうか?

まさにボディビルに誘われていました。でも、興味がなくて断り続けていたんです。すると、「“フィジーク”という競技が僕に合うんじゃないか?」と提案されるように。ボディビルとは少し違って、逆三角形のスタイルを美しく見せる種目です。「大会はサーフパンツで出られますよ」という言葉がきっかけで軽い気持ちで始めました。

――意外と軽いノリで始めたんですね(笑)。

そうですね(笑)。競技開始から1年後の大会に照準を合わせて本格的にトレーニングを開始しました。結局大会ではボロ負けしたんですが、やれることを全てやったので清々しい気持ちでしたね。メンターのシャイニー薊さんにも念願だったあだ名をつけてもらえたんです。それが「バイソンタクミ」なんですけど。

――思い出が詰まったあだ名なんですね。今後は、どのようなことをしていきたいと考えていますか?

僕自身が凄まじい環境で育ったこともあり、養護施設で育った子や一人親家庭の子供達に対して何か協力できればと思っています。そこで考えたのが、フィットネスと食事面からのサポートです。今までもこのテーマでイベントを開催したことがあるんですが、ゆくゆくはチャリティーイベントにしたいと考えています。

――フィットネスと食事って子供にとってすごく大事ですもんね。

成長には切っても切り離せませんからね。最終的にはジムをオープンさせて、養護施設や一人親家庭の子供、その親も格安で利用できる場所を提供したいと考えています。過去の僕には居場所がなかったから、きっとそんな場所があれば孤独を感じている子も安心できると思うんです。

――タクミさんだからこそ分かることがたくさんありますよね。

虐待で殺されかけ、事故で体がボロボロになった僕だからこそ、人の痛みには理解があると思います。今苦しさを抱えている人はなんでも僕に相談してみてほしいです。

――最後に、読者の方へメッセージをお願いします。

今までたくさんの逆境を乗り越えてきましたが、僕は強い人間でも、個性を持っているわけでもありません。生まれてから今でさえ泥の中でもがきながら生きています。一度は自殺を本気で考えた僕でも、今ちゃんと頑張れているんです。まずはできることから少しずつチャレンジしてみてください。そして悩んでいることがある人は僕に話してみてください。できることはなんでも協力します!

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取材/岡本 翔
文/キムラアヤ
編集/角田尭史
撮影/てん

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