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12年。

こんにちは。ラシンの茂木です。
新年明けたかと思ったら、あっという間に1.2.3月が過ぎ去りましたね。

先日3月11日、東日本大震災が発生してから12年が経ちました。
私、宮城県仙台市出身でございまして、3.11当日を経験しました。
3月11日のタイミングでnoteを書こうと思ったのですが、途中まで書いて後回しにしてしまったので、続きを書いていこうかと思います。

そもそも震災について書こうと思ったのは、下記の記事を目にしたからです。また、これまで自分が体験したことを言葉にまとめたことがなかったのでこのタイミングで文字に残しておきたいなと思いました。

上記記事の内容に合わせて書いていこうと思います。

東日本大震災が起きたあの日、あなたはどのように過ごしていましたか?

3月11日は中学校の卒業式の日でした。震災の記憶が強すぎで卒業式の記憶は一切残っていません。
卒業式が終わり帰宅し、お昼ご飯(ラーメン)を食べていた時に、大きな揺れが襲いました。人生でこんなにも長くて、恐怖を感じた時間は後にも先にももちろんありません。とにかく長かった。後々分かったのですがあの時揺れは190秒続いたそうです。震度6強の揺れが3分間。
私の家はマンションだったので、相当揺れました。(絶対に崩れると思いました)揺れている時は食器など、何から何まで凄い音を立てて落ちてくるので、とにかく必死に身を守っていたと思います。

揺れが治って、真っ先に中学の体育館に戻りました。
卒業式が終わり、感動のお別れをした2時間後に親も子も再集合するとは思ってもいませんでした。

体育館は人が多すぎで、一夜を過ごせる状態ではなかったので、家族で自宅に戻り片付けを行いました。一番きつかったのは数日間(確か4日くらい)電気が付かなかったこと。人が生きていく上で、「灯り」がどれだけ大切なのかについて身をもって感じました。

水道が復旧したのが10日後くらい。それまでは毎日兄と2人で給水場所まで行き、1時間ほど並んで水を調達。都市ガスの復旧は1ヶ月くらいかかった記憶があるので、お風呂は先に復旧したLPガスの友達の家で入ってた記憶があります。

少しずつライフラインが復旧していくに連れて、感動して大喜びしたのを覚えています。近隣の友達も皆給水場で一緒に並んでいたり、お風呂に入れてもらう代わりに食料を調達したりなど、不謹慎かもしれませんがその期間、その時間は少しだけ楽しかったという記憶もあります。
あの非日常の期間は本当に不思議な期間でした。

あれから12年、どんな日々を送ってきましたか?

幸い、私自身は被災者とはいえ、大きな被害に合わなかったため、震災から1ヶ月後には日常に戻り、サッカー漬けの毎日を過ごすことができました。
ただ、母方の祖母の家は壊滅的な被害を受けた沿岸部(南三陸町)だったので、家や車、漁業をしているので船などは全て流されてしまいました。
震災から8年ほどは狭い仮設住宅での暮らしでしたが、数年で漁業を再開し、家を再建するまでに至った祖母、伯父は本当に凄いなと思っています。

誰かに伝えたい思いはありますか?

震災を風化させないようにとは言うけれども、12年も経つと震災の話題も段々と減ってきてしまうのは仕方がないと思います。
ただ、やっぱりあの日、あの期間に経験したことは、せめて自分の近くにいる人たちには伝えていきたいなと思っています。

・大きな地震が起きたら沿岸に住んでいる人は直ちに、できるだけ遠くに、できるだけ高台に逃げる
・自然には勝てない。自分の身は自分で守る。
・簡単なことではないですが、防災に対する準備をしておく。
物理的な準備もそうですが、いざという時に焦らずに行動ができる心の準備が大事だと思います
・生きてさえいれば大抵のことどうにかなる。

復興のためにあなたがしたいことはありますか?

いつか宮城、東北に貢献できることをしたいなと思っています。
現時点で何をしたいなど明確な目標はありませんが、「いつか宮城のために何かを」という気持ちはずっと持ち続けています。

南三陸町歌津の風景

最後は祖母の実家があった街の写真を共有します。

2014年。3年経過してもこんな感じでした。
この空き地に祖母の家がありました。海近い!
これは2019年頃
2020年。かなり埋立が進みました。

コロナ禍になる前は毎年欠かさず行っていたのですが、
2020年以降は一度も行けていません。

海と山があり、澄んだ綺麗な空気の街なので、そろそろ行きたいなと思います。87歳になる祖母は健在です!

最後までお読みいただきありがとうございました。

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