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べりっと剥がして捨ててやれ!

視界の先にあった息子の後頭部が、突然見えなくなる。
あっ!と思ったときには泣き声があがり、アスファルトの道にうずくまる息子がいた。

思わぬところで転んで泣きじゃくる息子に痛かったなあ、と声を掛けながら抱きあげる。
3mmくらいのちいさな傷だけど、手を擦りむいている。

「いえにかえるーーー。ばんそうこうはってーーー。」

ようやく家から出てきたのにな…という気持ちを押し込めて息子を背負い、娘の乗った赤いベビーカーを押す。
青い空とぽかぽか陽気が、ちょっとだけ憎らしい。

家に着くと息子を家の中にやり、娘をベビーカーごと駐車場から一段上がった玄関前のスペースにあげる。
なんだか機嫌よくしている娘、幸い安全ベルトもしてある、ストッパーも止めた。
息子ハリー、娘ステイ。
頭の中でかちゃかちゃと優先順位を決めたら、玄関の扉を開けたまま、入ってすぐの洗面所で息子の傷を石鹸であらい、よく水分を拭いてから絆創膏をぺたり。

笑顔になったのを確認して慌てて外に出ると、今度は赤いものがグワリと後進するのが見える。

「!!!!!」

目の前でスローモーションのようにベビーカーが後ろに倒れ、娘の泣き声が響く。
看護師のくせに、なに子どもに怪我させてるねん。
頭のなかで、声が、響く。

少し前、職場である循環器内科の外来にひとりの患者さんがやってきた。

問診表の職業欄には「看護師」、主訴の欄には「〇〇(病名)のフォローアップ(以前にも通院していたことがあり、その病気の経過観察)」「1か月前からふわふわした感じがする」の記載。

すでに「初診」という場所で先輩看護師が問診を済ませた後だったし、循環器内科で診る疾患の中にも「ふわふわする」という症状が出ることはあるので、なんの疑いもなく患者さんを検査へと案内し、時間をおいて診察に入ってもらった。

その患者さんは診察が終わった後、暗い表情で扉をバタリと閉めて診察室を出ていった。
別の業務の対応をしていて診察内容を聞けていなかったわたしに、医師はこう言った。
「あの患者さん、頭が診てほしかったんだって。そういう場合は神経内科にまわして欲しかったなあ。〇〇のフォローアップはついでのつもりだったみたいだし。」

そう言えば、「ふわふわする」の症状について突っ込んで確認してなかった。自分に非はあるなあ…。認める…。

しおらしく落ち込む自分の横に、鼻息荒く憤慨している自分がいるのを見つける。

だってさ、だってさ、「初診」で問診受けたやん?そのうえで「循環器内科にまわってください」って言われたやろ?循環器内科が頭の専門じゃないのは知っとるよよな?頭の検査も出なかったやん?
看護師やのに、そんなことにも気づかんかった??

わたしはnoteにもTwitterにも、プロフィール欄に「看護師」の文字を入れていない。

看護師になりたての頃こそそれを名乗ることにほくほくしていたけど、次第に相手の反応が棘のようにちくっと刺さるようになった。
初めて出会った人に「看護師」であると明かした途端、「ああ~」「そんな感じだね~」と、わかったような口ぶりをされることがあるからだ。
なにが「ああ~」なんやろう?「そんな感じ」ってどんな感じやねん。
アクティブ?やさしい?気が強い?明るい?しっかりしてる?
そういう違和感が、胸に残る。

つまりは「看護師」というカテゴライズで、自分の印象を決められることに、ひとつの枠の中にくくられることに、抵抗があるのだ。

だってそんなの、ひとりひとり違うやんか。

それなのに。
家族が感染症にかかる、子どもが怪我をする、自分が病院にかかったときに要領を得ない。
そういうとき、すぐにあの声がわたしを責める。

看護師は家族が感染症に罹らないように、先回りして予防しないといけない。
看護師は子どもに怪我させないように、リスクヘッジして行動しないといけない。
看護師はスマートに自分の病状を伝えて、診察を受けないといけない。

自分自身をカテゴライズして、キョンシーのお札よろしく「看護師」のタグを糊でべっちょりと自分に張り付けて、それを同業者にも強要してるのはわたし自身やんか。

なによ、看護師のくせにって。なによ、看護師やのにって。
自分にも同業者にも、ちっともやさしくない、こんなお札。
べりっと剥がして、どっかに捨ててやれ。

思い込みのお札をぽいぽいっと捨てたら、また違う方向にすすめるやろうか。


※ちなみに、幸い娘はベビーカーの構造のおかげで頭は打っておらず、怪我せずに済みました。びっくりして泣いただけ。ありがとう、combiさん…。

ここまで読んでくれたあなたは神なのかな。