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自己紹介的なnote(続かない)

ある方との対談前に準備資料として唐突に書き始めて頓挫した、もう半生はとっくにすぎ、猛反省の記。
オリジナルはThreadsの連続投稿。

生まれ育ち

1975年7月、神戸市須磨区生まれ。
阪神淡路大震災では奇跡的に被害が少なかった地域。
ただ、震災の3日前に親父が脳梗塞を起こした。
親父は50歳で脳梗塞を起こし、その後の25年はリハビリテーションをして過ごし、コロナ禍が本格化する寸前の2020年1月に亡くなった。人生の3分の1をリハビリテーションに費したことになるが、それもまたそういう人生である、としか言えない。

いわゆる「酒鬼薔薇事件」の起きた中学校は車で10分ほどの距離。

なお、太陽が昇る時間帯に生まれたので「昇」と命名された。
イタイイタイ病の報告者「萩野 昇」との同姓同名は偶然だが、奇しくも「あちこちが痛い」疾患を専門としており、「萩野 昇」は全身の疼痛と戦う血脈に与えられるヴァンパイア・ハンターの名称なのかもしれない。
あと、これをThreadsに連続投稿したことが契機で「けいゆう先生(山本健人先生)」と同じ幼稚園卒であることが判明したことを付記しておきたい。
以下に子供時代の記憶を少しだけ。


中学・高校

灘中学・高等学校。あまり猛勉強をして受かったという記憶はないが、小学校の時、体感で9割の同級生男子が持っていたファミコンは買ってもらえず、本屋で攻略本を暗記して話をあわせていた。
後にそれが「あまり診療する機会のない稀な疾患について、文献的知識をもとにみてきたかのように語る」能力の伏線になっていたとは。
中学1年から高校3年まで剣道部に所属。高校2年生の頃に全国模試で割と良い成績を取って油断し、剣道部引退後に格ゲーにどっぷりハマって最後の駿台模試は理Ⅲ E判定だった。
まだカクカクのバーチャファイターよりも超必殺技の入力が難しいSNKの格ゲーばかりやっていた。未だに「KOF」とか「ストリートファイター」の新作が出る世界線にいるというのが信じられないが、たまにYouTubeでプレイ動画とか観ている。膝に矢を受けてしまったのでプレイヤーとしては復帰不能。
同級生には佐伯耕三[「官邸の金正恩」]


東大理Ⅲ〜医学部(1994-2000)

1994年に入学、バブル崩壊後にも関わらず浮き立った世相で小室哲哉が次々とシングルでミリオン達成していた。
しかし1995年1月に阪神淡路大震災、その後オウム真理教の一連の事件が起こり、陰鬱な世相となる。
実家の神戸が震災で無事だったのが救い。
入学当初、「脳科学研究」を志していたが、そういう「脳と心の研究」にある種の危うさを感じたことと、同級生に煌めくような才能の持ち主が複数いたことから、基礎医学専攻の道を断念。人間は初志貫徹しない方が良いこともあるというのはキャッチャーから転向した衣笠祥雄に学んだ(小学生時代)
その他、同級生には米村滋人[法学部教授の循環器内科医]、上田泰己[史上最若年で東大医学部教授に就任した、通称「プリンス」]など。

修行時代(横須賀海軍病院〜都立駒込病院 2000-2006)

医学部高学年[1998-1999]、ようやく"EBM"という言葉が日本に輸入されてきたが、未だGoogleは存在せず、Infoseekが医療情報に強いとか言われていた時代。

海外というか米国の医療を経験しないと話にならない感があり、横須賀海軍病院(US. Naval Hospital Yokosuka)でinternshipを経験する。
ここで「言行不一致が甚しい」米国人の気質が嫌になり、米国医師国家試験は最後のStep3以外合格したところで臨床留学の道は放棄した。

米国の「言ってることとやってることが違う」感を若いうちに体得できたのは良かったと思う(2023.12.03 追記)。

USNHの同期に中野美奈子アナの姉がいて、妹との食事会に行ったことがあるが、驚くほど話が合わなかったことを記憶している。
東大病院、国立国際医療センター(当時)で初期研修、その過程で奥さんを捕まえて「純ドメ内科医」としての方向性が定まる。
さらに都立駒込病院で3年間、感染症科〜呼吸器内科〜アレルギー・膠原病科〜血液内科と専門科を転々とし、ここでようやく膠原病を専門と定める。
当時パリにいた現在の心の師匠である聖路加国際病院・岡田正人先生の知遇を得たことの影響も大きい。
この頃、感染症科の周辺に、「日本の医療を良くしたい」という熱量をもった人々が多数集まっていた。感染症と無縁な科はないので、各科横断的に風通しのよい議論ができていたと思う。
岩田健太郎先生(イワケン)も活発に発信しており、その内容には首肯できることも多かった。
いつから、何が、彼を・・・その答えは風に吹かれている。
また、このときのコネクションが2020年からのパンデミックに活きるとは、当然誰も予想していなかった。

専門医の初期(東大病院 2006-2011)

東大病院アレルギー・リウマチ内科で、周囲に不思議がられながら大学院には入らず臨床と医学教育に専念する。リウマチ・膠原病分野で次々と新薬が出てきて、その効果に目を見張るも、適正使用の難しさを感じる。東大病院内の窮屈さにうんざりして、再度の海外留学(脱出)を企画するが、「剣道部の先輩」から、千葉県でリウマチ科医が足りない病院から行って欲しい(行け)という話が降ってくる。その先輩は、当時マスコミで酷い取り上げられかたをしていた産科医療や医療事故に対して、自前のメディアを創設して発信しており、まぁその線に乗ってみるのも悪くないかと思って現在の勤務地への異動を決める。
先輩の名前は上昌広という。この当時(震災前)は比較的マトモだった記憶があるが、遠い昔の話のようだ。
そういえば岩田健太郎はこの頃からちょっとなんだか様子がおかしかった[メーリングリストなどでよくわからない敵を措定して殴りかかったり、議論を一方的に切り上げたりするのが得意技]
世間はmixiやら2ちゃんねるやらTwitterやら。

東日本大震災[2011.03.11]

既に異動が決まっていた2011.03に大震災が起きる。
当時まだ東京にいて、震災当日はある種の高揚感とともに徒歩で自宅に帰ったが、その翌日から津波、ならびに原発事故が報じられはじめる。
臨床免疫の領域で、外傷後に一時的に細菌感染症への抵抗力が高まり、その後に長期にわたる免疫抑制状態に陥る現象[SIRS-CARS-PICS]が知られているが、日本全体でこの時から「長い免疫抑制状態」に入ったように感じている(と、免疫学の知見は「なんとなく社会全体に当てはめて語ってしまいやすい」所が落とし穴だと思う)

帝京ちば時代(2011-現在)

東大病院時代に心折れた感があったものの、帝京大学ちば総合医療センターのある内房地域にはリウマチ科医と呼べる医師が不在で、コツコツと患者を診療しているうちにいつの間にか大所帯となり、当初「血液・リウマチ内科」だったのが母屋を乗っ取る形になってしまった。
2011年に第一子(長男), 2017年に第二子(長女)に恵まれ、保育所落ちた日本死ねと思うこともなく、田舎での子育てを楽しむ。どさくさにまぎれて社会人大学院生として学位を取得する。
「医学博士」を軽視する自分の中の価値観は、さかのぼると学生時代に聞いた黒川清先生の「医学博士は有害無益、そのうちなくなるだろう」という講演会での与太によって醸成されたのだと気付く。

膠原病というか自己免疫疾患というか

免疫の異常を扱う科のうち、外因性の抗原に由来する、主として即時型の過敏症(Hypersensitivity)を扱う科が「アレルギー科」で、自己成分に対する異常な免疫反応を特徴とする疾患を扱う科が「リウマチ科」で、いずれも日本では伝統的に「科としての独立性が弱い」部門である。アレルギー・リウマチ科のように「抱き合わせ販売」されていることも多い。
アレルギー科は小児科、皮膚科、耳鼻科、眼科、呼吸器科などの乗り入れ、リウマチ科は整形外科と内科の乗り入れで成り立っているようなところがある。
日本の各臓器専門医の臨床レベルは高い一方で、臓器横断的なリウマチ科、感染症科、腫瘍内科………などは伝統的に弱い

免疫概論 (1)

免疫反応には「適切な免疫反応」があり、それは外敵や内因性の異常[悪性腫瘍など]を除去するために炎症を起こす反応である。
適切な免疫反応の条件は

  1. 適切な部位で

  2. 適切な対象に

  3. 適切な強度で

  4. 適切な期間

起きることである。
………免疫力を高めるって、これらをどうすることなのか、全然わからない。
一方で上記の4条件が「過剰」であっても「過小」であってもトラブルは起きるが、過小である場合には「免疫力が下がる」と表現しても良いかもしれない。
上がらない(高まらない)けれど、下がることはある?

免疫力低下の指標として

  • HIV感染症におけるCD4

  • 好中球数

  • 先天性無ガンマグロブリン症におけるIgG

などはある程度確立しているかもしれない。
例えばpDCの活性だけを「プラズマ乳酸菌」によって高めても、多くの自己免疫疾患(全身性エリテマトーデスなど)ではpDC活性は上昇しているわけでありまして。

免疫概論 (2)

そもそも「抗原」の定義からして難しく、あれは「抗体やTCRなど生体の多様な認識メカニズムが認識できる分子」であって、えっ、そちら(生体)の側から定義するの?という抽象的な代物なのである。
で、膠原病は「自分を標的として免疫反応が起きる自己免疫疾患」で、もっと詳しく言うと「慢性・多臓器・炎症性・自己免疫/自己炎症性疾患」が膠原病となる。
歴史的経緯として、抗体の多様性を担保する仕組みが利根川進によって先に発見されてしまい、ではどうやって病原体が多様な抗体の一部を産生するリンパ球の活性化スイッチを押すかについては後で見つかった[Danger signalなりTLRsなり]という順序ではあるものの、大きく
a. 自然免疫[innate immunity]
b. 適応(獲得)免疫[adaptive immunity]
に分類するのが理解のお作法となっている。

(註: innateとacquiredの間にtrained immunityを挟む、昨今の風潮あり)

免疫概論 (3)

旧・Twitter上で爆発的に誤解されたように、ワクチンではなく[故意の]感染で「免疫を獲得」することは「自然免疫」でも「獲得免疫」でもない。
自然免疫は、より原始的な免疫反応であり、例えて言えば「ある程度ヤバいものを事前にパターン別に予測しておき、その仲間が生体内に入ってきたら(出現したら)免疫反応のトリガーが引かれる」トラップ系の反応である。
これに対して適応(獲得)免疫は「犯人の顔はわかっているので、犯人が射程内に入ってきたらヘッドショットする」スナイパー系の反応である。
後者の方が、照準を合わせるための時間が必要である。
ざっくり言うと
a-1. 自然免疫は即時に免疫反応を起こすことができるが免疫記憶が生じにくい
b-1. 適応免疫は最初時間がかかるが、免疫記憶が生じ、2回目以降は比較的即時に反応が起きる
では、免疫記憶が起きるが、即時に反応が起きる「アレルギー(1型過敏症)」は自然免疫か適応免疫か、というと、どうやら関与する細胞などは主に自然免疫に関連した細胞なので、自然免疫寄りの反応と考えてよい。

免疫概論 (4)

先に述べた「適切な免疫反応」の4条件

  1. 適切な部位で

  2. 適切な対象に

  3. 適切な強度で

  4. 適切な期間

の一部、あるいは複数の箇所が故障しているのが免疫異常で、特に自己免疫疾患では本来別のもの[病原微生物など]が対象であるべきところ、自分の臓器の一部が対象となってしまう。
この反応は普段は注意深く調整されており、幾重ものチェックポイントが設けられているが、同時にその「チェックポイント」を利用して免疫系から自分を隠しているのが腫瘍細胞、そして一部の感染症である。
「免疫チェックポイント阻害剤」はガン診療にブレークスルーを、本庶佑先生にノーベル医学生理学賞をもたらしたが、同時に「irAE(免疫関連副作用)」という「薬の副作用としての『人工膠原病』」のような、不思議な病態ももたらす事になった。

膠原病治療の光と影 (1)

僕がUSNH Yokosukaにいた同時期に、USNH Okinawaには岸本暢將先生[現・杏林大]がいらっしゃった。その当時、僕は神経内科を、岸本先生は老年病科を志していたが、2人とも今はリウマチ科医である。
余談だが、岸本先生は僕のことをハギーと呼ぶけれど、オフィシャルな場では萩野なのか荻野なのか一瞬迷うことがあるように見受けられる。もう20年来の付き合いなのに。
岸本先生が志望科を老年病→リウマチ科にシフトした理由には、当時米国で使われはじめた「寝たきりの関節リウマチ患者に点滴すると歩けるようになる」と言われた魔法の薬、Remicade(レミケード)の威力[1998年にFDA承認]があると思う。
これが「高額で、爆発的な効果があるが、中止すると悪化する」薬の時代の幕開けである。
ちなみに慢性骨髄性白血病に対するGleevec(グリベック)の承認が2001年で、これもジャンルは違えど同じカテゴリーに入る薬と言える。

膠原病治療の光と影 (2)

Remicadeの成功は、同時に様々なこと[問題点]を浮かび上がらせた
a. 関節リウマチ、クローン病など、多くのサイトカインが関与する疾患が、たったひとつの「TNF-α」というサイトカインを抑制するだけで劇的に改善してしまった。例えて言えば、台風のなかで二酸化炭素の濃度を下げるだけで台風が消えてしまったかのような印象を受けた。いろいろ理屈はつけられるが、ほんとうのところはその理由はまだわかっていないと言える。
b. 日本でそれまで関節リウマチの診療主体となる科は整形外科で、内科の医者は関節に触りもしないのが主流だった[今でもそう]が、内科医が扱うべきカテゴリーの「関節リウマチの薬」が登場し、にわかに「内科的な筋骨格診察」が可能な医師=リウマチ科医が注目されるようになった。
b-1. USNHの大先輩・道後温泉病院の高杉潔先生の「関節所見のとり方」DVDが製薬会社によって配られていた記憶がある。
c. 製薬会社のプロモーションに乗る形で、不適切な対象患者に高額だが強力な生物学的製剤を使用して「名を上げようとする」診療所が現れた。
これは日本の「フリーダムすぎる」医師の裁量権の問題も絡んでおり、未だに「どの保険医が、いつ、何を処方したか」当局に把握されていない問題でもある。
そのような診療所では、関節リウマチの診断すら覚束ないままに、患者を脅して(関節リウマチは放っておくと車椅子・寝たきりになるよ、など)生物学的製剤を使わせて、副作用が出たら後方病院に丸投げする、というプラクティスが常態化しており、学会も製薬会社も[当然]それに歯止めをかけられない、という事態が続いた。いまも続いている。
d. 本来なら「長期間関節を使う予定のある、若いリウマチ患者」が使うべき薬が、窓口負担額の問題で使用できず、「高額な痛み止め」として高齢者に処方される傾向が出てきた。いわゆる「世代間格差」である。
また、身体障害者としての等級が、治療によって下がると生物学的製剤が(窓口負担の問題で)使用できなくなり、そのことでまた身体障害者としての等級が上がる………という、そもそも「身体障害者認定の仕組み」が想定していなかった事態も起きた。

[おまけ: "ヤンデル" 市原真先生による言及]

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