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人間が『本当に絶望』する瞬間とは?

人間がもっとも絶望するのは
どんな時でしょうか?

とても大変なことを課されて
苦悩するときでしょうか?

たしかに、目の前に
ドカンと面倒な仕事を積まれたり
学校の課題がドッサリきたら
それは、イヤですよね。

…でも、
たいていの人は、それでもやる
でしょう。

お金のためであったり
学校の卒業のためであったり…

その「苦悩」には
乗り越えた先に「意味」があるからです。

さて、では
乗り越えた先の
意味がない状態で
苦悩を乗り越える事は
できるでしょうか?

ただ、奴隷として
一生働き続けろと言われて
一生「苦悩」し続けろと言われて
それに耐えられるでしょうか?

おそらく、
「人生に意味がない」という
状態になってしまい
やる気が無くなるのでは
ないでしょうか?

この状態こそが
最もやる気を無くす状態

すなわち
「苦悩」そのもの よりも
「苦悩」に意味がない 状態が
もっともやる気を奪い
人を絶望に導く
、ということです。



今まで「意味のない苦悩」に
陥ってしまった人は
どうしていたのでしょう?

そのような「意味のない苦悩」に
陥っていた、ユダヤの人たちは
苦悩に意味を与えたのです。 

ただ、現実の世界を変えることは
できなかったので
想像の世界で苦悩に意味を与えたのです

それがキリスト教であり
今日にいわれる「道徳」
なのです。

無欲であること
権力をもたないこと
自分がより高みにいくよりも
弱いものを助けることが正しいということ…

貧しく、苦悩の中で慎ましく生きたものが
死後の世界で幸福になれること

これが、現実の世界で「苦悩する意味」
となったのです。

哲学者ニーチェは、キリスト教道徳に対して
一貫して否定的なことを言い続けます…が

「苦悩に意味を与えた」
=「人間を救った」ことについては
肯定的に述べています。

キリスト教の理想=禁欲的な理想に対して
述べている部分を引用します。

『道徳の系譜学』第三論文
二八 虚無への意志 より

禁欲的な理想はどの点からみても、
かつて存在したうちで最も優れた
「何もないよりはましな代用品」
だった
のである。

もちろん、この「代用品」には
種々問題点があるわけですが

人々の生に意味を与えたことは
間違いありません

人は「苦悩そのもの」でなく
苦悩する「意味がない」ことに絶望します。

迫害され、現実を変える力を
もたなかったユダヤの人たちは
宗教の力で、生きる意味を回復しました。

現代に生き、自由に選択のできる私達は
生きる意味=「日々の苦悩」の意味を
自分で選べます

あなたは、どの意味を選びますか?







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