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「不快」から逃れる方法…と、その副作用

「不快」
日々、感じていませんか?

「不快」を避ける方法を
知りたいと思いませんか?

実は私達はすでに
「不快」を無くす方法を知っている
のです。

それは
「睡眠」に入ってしまうこと

これは文字通り眠ってしまう
ということでもありますが

「起きている間も」
睡眠状態に近づく
ことで、
不快が克服できる
ということでもあります。


ニーチェ『道徳の系譜学』
第三論文 一七 宗教の起源より
引用します。

圧倒的な不快感を克服するための
第一の方法として、生の感情を
もっとも低い水準まで引き下げる
ことが
試みられる。
もはやできるかぎりいかなる意欲も、
いかなる願望も抱かないようにするのだ。
(中略)
愛さないこと、憎まないこと、
心を動かさないこと、復讐しないこと、
富を積まないこと、働かないこと、
乞食ぐらしをすること、
できれば妻を娶らず[娶ったとしても]
できるかぎり妻の数を少なくすること、
精神的には「愚かであれ」という
パスカルの原則を採用すること。
この結果として生まれるのは、
心理学的および道徳的には
「無我」であり、「聖化」であるが、
生理学的に表現すると
「睡眠状態に入る」
ということになる。

感情を動かさない。
動かすようなことをしない。

こういった、いわゆる、
無我の境地
起きたまま睡眠状態に入る
ということになります。

心が動くから、不快になるのです。

だから、できるだけ
感情を抑えて心を動かさない

とても、単純なことです。

しかし、どうでしょう?

こういう状態になりたいと
思うでしょうか?

たしかに、
無我の境地
聖人の境地 と言えば
聞こえは良いですし、

日々、不快に苛まれている
私のような人間だと
「不快」から逃れられるのなら…と
感情の動かない状態に
ちょっとした憧れ
も抱きます。

ただ、一方で、強い喜びも
心の動きから生まれる
ものです。

感情の動きを捨て
起きていながら睡眠状態になる
ということは

「強い喜び」も捨てるのと同義です。

確かに「不快が無い」というのは
良いことのように感じます


ただ、同時に「快も無い」となれば
それはもう「虚無」と言って
良いのではないでしょうか?

起きながらにして寝ているような
波のない人生
が良いか

不快があっても、それ以上の快を
求める人生
が良いか

あなたは、どちらでしょうか?







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