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「忘れる」は「健康」の源である ニーチェ『道徳の系譜学』

私たちは、学校や仕事の場で
さまざまなことを
覚えておかねばならない。

だから、忘れる=困ったこと と
捉えがちである。

しかし、ニーチェは、
この人間の「忘れっぽさ」なしでは

いかなる幸福も、明朗さも、
希望も、誇りももてない
し、
いかなる現在もありえない

と言っている。

「忘れる」ことは一つの「能力」である

この「忘れる」能力のおかげで
どういう恩恵が得られるか。

わたしたちがこれまで体験し。
経験し、自分のうちに取り入れたもの

熟れるまで(「精神に同化」されるまで
は、と言い換えることもできるだろう)、
意識にのぼらないですむのである。
それはわたしたちの身体にとって
栄養となるものが「身体に同化」される
無数のプロセスが、意識にのぼらないのと
同じことである。
白紙状態を確保して、
新しいものをうけいれるべき場所を
作りだす
こと、とくに高尚な機能と
器官が働く余地を作りだして、
統制し、予測し、予定を立てられる
ようにすることである

自分のモノになっていない
様々な経験・体験を忘れることで
頭のなかに「白紙」
を作る
それによって、新しいモノを
受け入れる
ことができる

そして、この「忘れる」ことが
できていない人間がどうなるか

ついても述べている。

この抑止の装置が
損傷をうけているか、
停止している人間は、
いわば消化不良に陥っている
ようなものであり(これは
単なる比喩ではない――)
何ごとも「片づける」ということが
できない
のだ。

自分のモノになっていない
経験・体験・知識は
意識の外に放って、忘れてしまう

これができないと
消化不良になる というのだ。

自分のモノにならない
意識しても意味のないこと

例えば、過去の失敗「そのもの」を
思い出すことがそれに当たる
と思う。

失敗した時の嫌な気持ち
陰鬱な感情は意識しても
何も良いことはない。

今の自分の活動を阻害するだけである

失敗から「得た教訓」だけを
自分のモノ
としたら
あとは忘れてしまうのが良い

陰鬱な感情を反芻することに
意味はない、消化なんて
できないものだと思う。

忘れっぽさは人間においては
一つの力であり、
逞しい健康の一つの形式である。

「忘れる」は健康の源である。


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