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人殺しは絶対悪か? ニーチェ「道徳の系譜学」

行為そのものに善悪があるのではない
たんに
「損害」をもたらすのが悪いだけ
なのだ。

イメージしやすい例として
「人殺し」を挙げてみる。

これは、絶対の悪だろうか?

平和な現代に生きる私たちの中には
直感的に「悪い」
感じてしまう人も多いのではないか。

私も、そう感じた。

ただ、少し想いをめぐらせれば
違うことが分かる

これは
武士の時代はもちろんだし
最近なら戦争を考えれば分かる

敵を殺せば殺すほど
「良い」とされていた

「人殺し」という行為そのものが
悪なのではない。

状況次第なのだ。

その行為が、悪となるか、ならないかは
自分の所属する集団に
損害を与えるか否かだけの違い
なのである。

この話が書かれている部分を
引用する。

「道徳の系譜学」第二論文
14 刑罰と負い目の感情 より

犯罪者は、
司法によって定められ、
執行された処罰の手続きが
どのようなものであるかを
目撃することで、
自分の行為そのものが、
それ自体として
非難すべき性質のものであるとは
考えなくなった
のだ。
なぜなら犯罪者は、
自分の行った行為と
同じ性質の行為が
正義の名においてなされている
こと
(中略)
スパイ行為、欺き、買収、詐術など
警官や告訴者が活用する
すべての悪賢い手管が、
そしてそれだけではなく、
さまざまな刑罰において
明確に確認できる行為
である
強奪、圧服、誹謗、
監禁、拷問、殺害
などが、
たんに感情に走ったから
行われているどころか、
根本的に免責されていること

「正義」の象徴である警官も、
「正義」の執行である刑罰

行為だけを取り出してしまえば
犯罪者と同じこと
をしている。

繰り返すが、ポイントは、
行為そのものではなく
それが「損害」を与えているか

である。

この話から何が言いたいか

それは、
自分の内から出てくる衝動を
「悪そうだから」という理由で
抑え込んでいないか

という話である。

今日の話のとおり
行為そのものが悪なのではない

先日、スピノザの「エチカ」から
他人の不幸すら「善」となりうる
という話をしたが

「悪」と思われそうなことでも
それが「善」となることがある
のだ。

ただ、
自分の「善」と、「集団」の「善」が
合わない場合がある。

「集団」に損失を与えるなら
「罰」を受けることになる
だろう。

だが、それはもう
不運であった、というだけの話である。

たとえば、
個人の善に従って
ヒドイ毒舌を吐き
人を傷つける人が居たとする。


これは一見「悪」に見える。

その「傷つける」という害よりも
多くの喜びを誰かに与えるなら
その人は「集団」から
受け入れられる
のである。

それは、集団全体で見れば
得なのである
から。

もし「損」のほうが大きいのなら
その結果がどうなるか…は
ご承知のとおりである。


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