【古文のはなし】土佐日記を読む。この舵取は天気も読めないし欲が深い。

前回のあらすじ(二月三日)
京都へと帰れぬまま二月になってしまった。麻を縒って紐にしても、紐を通らない涙の玉しかないから意味がなく思われる。


原文↓

前回↓


四日、楫取「けふ風雲のけしきはなはだあし」といひて船出さずなりぬ。然れどもひねもすに浪風たゝず。この楫取は日も得計らぬかたゐなりけり。

四日、舵取が「今日の風雲の様子はかなり悪い」と言って船を出さなかった。しかし一日中波風立たず。この舵取は天気も予測できない愚か者だ。

>シンプル悪口。船を出せたはずの日に出さなかったらまあ悔しいだろうけども。


この泊の濱にはくさぐさの麗しき貝石など多かり。かゝれば唯昔の人をのみ戀ひつゝ船なる人の詠める、「よする浪うちも寄せなむわが戀ふる人わすれ貝おりてひろはむ」といへれば、ある人堪へずして船の心やりによめる、「わすれ貝ひろひしもせじ白玉を戀ふるをだにもかたみと思はむ」となむいへる。女兒のためには親をさなくなりぬべし。玉ならずもありけむをと人いはむや。されども死にし子顏よかりきといふやうもあり。

この泊の浜にはさまざまな美しい貝や石がたくさんある。それで、土佐で亡くなった女子を恋しく思って船に乗っている人が「寄せる波よ、忘れ貝を打ち寄せてくれ。恋しい人を忘れるために船から降りて拾うから。」といったので、ある人が耐えられずに船の憂さ晴らしに詠んだ歌で「忘れ貝なんて拾うまい。あの白玉のように可愛らしい子を恋しく思うだけでも形見と思おう。」と言った。亡くなった女児を思うと親は幼稚になってしまうのだろう。玉と言うほど美しかったか?と人が言うだろうか。しかし死んだ子供の顔は美しかったと言う声もある。

>忘れ貝と言われる二枚貝があって、失恋を忘れさせてくれるそうだ。失恋した時に思い出のものを捨てる、失恋ソングを歌うなどするところを、二枚貝を拾いに行くっていう人がいたらなかなかキャラが強い。


猶おなじ所に日を經ることを歎きて、ある女のよめるうた、「手をひでゝ寒さも知らぬ泉にぞ汲むとはなしに日ごろ經にける」。

また同じ場所で日を跨ぐことを嘆いて、ある女が詠んだ歌「手を濡らして寒くなる泉で水を汲むこともなく和泉という場所で一日が経った」。


五日、けふ辛くして和泉の灘より小津のとまりをおふ。松原めもはるばるなり。かれこれ苦しければ詠めるうた、「ゆけどなほ行きやられぬはいもがうむをつの浦なるきしの松原」。かくいひつゞくる程に「船疾くこげ、日のよきに」と催せば楫取船子どもにいはく「御船より仰せたぶなり。あさぎたの出で來ぬさきに綱手はやひけ」といふ。この詞の歌のやうなるは楫取のおのづからの詞なり。楫取はうつたへにわれ歌のやうなる事いふとにもあらず。聞く人の「あやしく歌めきてもいひつるかな」とて書き出せればげに三十文字あまりなりけり。

五日、今日はなんとか和泉の灘から小津の泊へ向かう。松原も遠くに見える。色々と苦しいので詠んだ歌「いくら進んでも通過することができないのは愛する人が紡いだ糸のように長い小津の浦の岸の松原だよ」。そうこう言っていると「船をはやく漕げ、日の良いうちに」とせきたてると、舵取らが「御船よりご命令です。朝北風の出てくる前に綱手はやく引け」という。この和歌のような言葉は舵取が自然に発したものである。舵取は意識して和歌のように言った訳ではない。聞いた人が「妙に和歌っぽいな」と書き出して見たところ、なるほど三十一文字だった。

>5・7・5・7・7になってると和歌っぽいなってなる感覚、現代人でもよく分かる。和歌を学び続ける限り衰えぬのだろうな。偶然発した言葉が七五調だと言ってても聞いてても気持ちいい。

>前回謎だった船の牽引、引かれる側だったのがここで分かった。通して読まねば判明しまい。


今日浪なたちそと、人々ひねもすに祈るしるしありて風浪たゝず。今し鴎むれ居てあそぶ所あり。京のちかづくよろこびのあまりにある童のよめる歌、「いのりくる風間と思ふをあやなくに鴎さへだになみと見ゆらむ」といひて行く間に、石津といふ所の松原おもしろくて濱邊遠し。

今日は波立つなよと、みんながずっと祈っていたおかげで風波立たず。ちょうど今、カモメが群れて遊んでいるところがあった。京都へ近付く喜びのあまりに童が詠んだ歌「祈願してやってきた風間と思うにも拘らずカモメをさえ波に見間違う」などと言って進んでいく間に、石津というところの松原が素晴らしく浜辺が遠くまで続く。


又住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人の詠める歌、「今見てぞ身をば知りぬる住のえの松よりさきにわれは經にけり」。こゝにむかしつ人の母、一日片時も忘れねばよめる、「住の江に船さしよせよわすれ草しるしありやとつみて行くべく」となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、戀しき心ちしばしやすめて又も戀ふる力にせむとなるべし。

又住吉のあたりを漕いでいく。ある人が詠んだ歌「今見て我が身を知ったよ。住の江の松よりも先に私は老いてしまったと。」亡くなった女児の母が一日片時も忘れることは無く詠んだ歌は「住の江に船を寄せてくれ。ここの忘れ草は効果があるか摘んでいくために。」と。すっぱり忘れようというのではなく、恋しい気持ちを少し休めて、また恋しく思う力にしたいのだろう。


かくいひて眺めつゞくるあひだに、ゆくりなく風吹きてこげどもこげどもしりへしぞきにしぞきてほとほとしくうちはめつべし。楫取のいはく「この住吉の明神は例の神ぞかし。ほしきものぞおはすらむ」とは今めくものか。さて「幣をたてまつり給へ」といふにしたがひてぬさたいまつる。かくたいまつれどももはら風やまで、いや吹きにいや立ちに風浪の危ふければ楫取又いはく「幣には御心のいかねば御船も行かぬなり。猶うれしと思ひたぶべき物たいまつりたべ」といふ。

そうして漕ぎ続けていると、思いがけなく風が吹いてきて漕いでも漕いでも後ろへ進んで危うくひっくり返るところだった。舵取曰く、「この住吉の明神は例の神であるよ。欲しいものがおなりなんだろう。」とは当世風であるよ。そして「幣を献上なさってください」と言うに従って幣を奉る。だけども風は止まず、風は吹くわ波は立つわ危ない。舵取曰く「幣では満足なさらないので御船も進まないのだ。明神様がもっと嬉しいとお思いになるものを献上してください」とのことだ。

>欲しがり明神。自分たちにとってより価値の高いものを渡せば願いを叶えてくれるはずだという価値観。うーむ。あなたにとって価値の高いものを差し出せば、その想いに見合うだけの願いを叶えてやりますよという神と、私にとって価値の高いものを差し出せば、あなたがそれに価値を感じていなくても私が思う価値だけ願いを叶えてやりますよという神と、どっちなんだ。それとも神は人間と同じ価値観を持っているのか。


又いふに從ひて「いかゞはせむ」とて「眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡をたいまつる」とて海にうちはめつればいとくちをし。さればうちつけに海は鏡のごとなりぬれば、或人のよめるうた、「ちはやぶる神のこゝろのあるゝ海に鏡を入れてかつ見つるかな」。いたく住の江の忘草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら鏡に神の心をこそは見つれ。楫取の心は神の御心なりけり。

再び言うことに従って「どのようにすれば良いのか」と聞くと「眼さえ二つある。ただ一つしかない鏡を奉る。」と言って海に鏡を沈ませたので大変口惜しい。すると途端に海は鏡のように静まったので、ある人が詠んだ歌「神の荒れた心を表した海に鏡を入れて、また別の心の側面を見たことだよ」まったく、住の江の忘れ草、岸の姫松といった神ではない。はっきりと鏡に神の心をみた。舵取の心は神の御心なのだなあ。

>投げ込む時に鏡に舵取が映って、あっコイツ!ってなったのかな。鏡を投げ入れたこと、今後同じメンバーで酒飲んでる時毎回語られるだろうな。ついでに日が悪いとか言って船出さなかったくせに天気良くて一日無駄にしたこともあったよなとか言われる。



なんか難しい部分が多くてちゃんと理解できてないかも。ゆっくり品詞分解して辞書ひく時間が必要。

エピソードに皮肉多めで長旅のイライラが出ている?主に舵取への不満がすごい。

ちょうど昨日京都へ行って神社を回った。おみくじが京都価格(他なら百円のところ二百円)だったので驚いた。お守りなども想定より数百円高く、これが京都の神なのかと思った。神からすればご縁があるようにと五円玉を投げられるよりも細かいのがなくて出された百円の方が嬉しいんだろうか。神にとって人間の通貨って特に価値はないよな。神社にとって必要であっても。

神社が神と橋渡しをする場所ならば、神社にとって必要なものを納めると神社がその分融通してくれるよってことになる?じゃあ神は何を受け取るんだろう。信仰心?



こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。

次回更新 2/26:続き!!!!多分最後!!!!
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。