【古文のはなし】『土佐日記』を読む。「二月になってしまった」と嘆き苦しみ

前回のあらすじ(正月二十六日)
海賊がたくさんいるというあたりまでやってきた。怖い怖い。神託に従って進もう。

原文↓

前回↓


廿七日、風吹き浪あらければ船いださず。これかれかしこく歎く。男たちの心なぐさめに、からうたに「日を望めば都遠し」などいふなる事のさまを聞きて、ある女のよめる歌、「日をだにもあま雲ちかく見るものを都へとおもふ道のはるけさ」。

二十七日、風が吹いて波が荒いので船を出さなかった。みな畏れ嘆く。男たちが気を紛らわすために、漢詩で「日を望めば都遠し」などと引用して、太陽はすぐに見えるけれども都は見えないから太陽の方が近いと思われると言い合っているのを、ある女が聞いて「太陽でさえ天雲の近くに見えるのに、都へ早く帰りたいと思う道はとてもとても遠いことだよ」と詠んだ。


又ある人のよめる。「吹くかぜの絶えぬ限りし立ちくれば波路はいとゞはるけかりけり」。日ひと日風やまず。つまはじきしてねぬ。

またある人が「吹く風は耐えることなく波はおさまらないので波路はますます遠いものだね」と詠んだ。一日中風が止まず、不満で爪弾きをして寝た。

>調べていたら、「都=行き着くところ=エクスタシー」、爪弾きを「つま=配偶者」、「弾き=拒否する」と解釈するサイトに行きつき、年齢的に全く問題ないのだけど成人向けコンテンツに行きあたって「見ちゃいけないものを見てしまった!」と思う感じを味わった。この妖艶な解釈の場合、「弾き」は「拒否する」と捉えるよりは「まぐわう」方が合っているのではなかろうか。
いや、まぐわいの記録をしれっとつけたものがここまで有名になってたら紀貫之のこと嫌いになるわ。え?そういう解釈ある?


廿八日、よもすがら雨やまず。けさも。
廿九日、船出して行く。うらうらと照りてこぎゆく。爪のいと長くなりにたるを見て日を數ふれば、今日は子の日なりければ切らず。正月なれば京の子の日の事いひ出でゝ、「小松もがな」といへど海中なれば難しかし。

二十八日、一晩中雨が止まず、今朝もずっと。
二十九日、船を出して行く。のどかに漕いでいく。爪が大変長くなったのを見て、日を数えてみたら、今日は子の日だったので切らない。正月なので京の子の日のことを言い出して「小松があればなあ」というけれど、海にいるので難しい。

>小松引きの行事だ!これ古文の授業で教えるべきだと思うんだが、美術館で解説文を読むまで知らなかった。ところで小松って、若松のことなのか小松菜のことなのか。美術館の解説文は若松の絵に付いてたから、若松なんだろうが。若松の絵が描かれるときに根っこまであるのを考えると、幹の途中で切らずに引っこ抜けるものだからか。

>手の爪は丑の日に、足の爪は寅の日に切ると良いらしい。へえ〜。そんなの待ってらんないね。およそ二週間伸ばしっぱなし。


ある女の書きて出せる歌、「おぼつかなけふは子の日かあまならば海松をだに引かましものを」とぞいへる。海にて子の日の歌にてはいかゞあらむ。又ある人のよめるうた、「けふなれど若菜もつまず春日野のわがこぎわたる浦になければ」。かくいひつゝ漕ぎ行く。
おもしろき所に船を寄せて「こゝやいづこ」と問ひければ、「土佐のとまり」とぞいひける。昔土佐といひける所に住みける女、この船にまじれりけり。そがいひけらく、「昔しばしありし所の名たぐひにぞあなる。あはれ」といひてよめる歌、「年ごろをすみし所の名にしおへばきよる浪をもあはれとぞ見る」。

ある女が買い手出した歌「心細いな。今日は子の日なのか。自分が海女なら海松くらいは引きたいものだが」と言った。海で子の日の歌というのはどのようなものか。又ある人が詠んだ歌「今日は正月の子の日だが若菜もつまずにいる。春日野は私が漕ぎ渡っている海にはないので」。などと言って漕いでいく。
景色の良いところに船を寄せて、「ここはどこ」と聞くと「土佐の泊」と言った。昔、土佐というところに住んでいた女がこの船に混じっていた。その人が言うことには、「昔そのような名前のところにいたんだ。懐かしい。」と言って詠んだ歌「以前何年も住んだ所の名前と同じ名前を持つところなので、寄る波をもしみじみと見る」


三十日、雨風ふかず。海賊は夜ありきせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出して阿波のみとを渡る。夜中なれば西ひんがしも見えず、男女辛く神佛を祈りてこのみとを渡りぬ。寅卯の時ばかりに、ぬ島といふ所を過ぎてたな川といふ所を渡る。からく急ぎて和泉の灘といふ所に至りぬ。今日海に浪に似たる物なし。神佛の惠蒙ぶれるに似たり。けふ船に乘りし日より數ふればみそかあまり九日になりにけり。今は和泉の國に來ぬれば海賊ものならず。

三十日、雨風吹かず。海賊は夜歩きをしないものだと聞いて、夜中に船を出して阿波の海峡を通る。夜中なので西東も見えず、皆一心に神仏を祈って荒れる海峡を渡った。午前五時頃に、ぬ島というところを過ぎて、たな川というところを渡る。せっせと急いで和泉の灘というところに着いた。今日は海に波らしいものはない。神仏の恵みだろうか。今日は船に乗って出発した日から数えると、ひと月と九日になった。今は和泉の国に来たので海賊は気にしなくて良い。

>自分が治めていた所の海賊が取り締まりの怒りで襲ってくるのではと怯えていたけど、ようやく管轄外まで戻ってきて安心しているみたいだ。一ヶ月と十日も船旅するの大変だろうなあ。クルーズ船のような快適さも無いし。
>阿波のみとは鳴門海峡、夜に鳴門海峡を渡る恐ろしさを考えると、必死に祈りを捧げる気持ちはすごくわかる。


二月朔日、あしたのま雨降る。午の時ばかりにやみぬれば、和泉の灘といふ所より出でゝ漕ぎ行く。海のうへ昨日の如く風浪見えず。黒崎の松原を經て行く。所の名は黒く、松の色は青く、磯の浪は雪の如くに、貝のいろは蘇枋にて五色に今ひといろぞ足らぬ。この間に今日は箱の浦といふ所より綱手ひきて行く。

二月一日、朝の間雨降る。午の時くらいに止んだので、和泉の灘というところから出て漕ぎ進む。海の上は昨日のように風波が見えず、落ち着いている。黒崎の松原をすぎる。場所の名前は黒く、松は青く、磯の波は雪のように白く、貝の色は蘇枋色で、五色にするには黄色が足りない。などと考えている間に、今日は箱の浦というところから綱手を引いていく。

>五行説にちなんだ五色が揃わなかったというエピソード。七夕の短冊がこの五色になっているとのことだが、あんまり意識して見たことがなかったな。折り紙に収録されてる色を適当に使ってるところが多いし。
あれ、鯉のぼりの色ってどうなってたっけ。あ、関係あるっぽい。短冊よりも吹き流しの方がピンとくる。


かく行くあひだにある人の詠める歌、「玉くしげ箱のうらなみたゝぬ日は海をかゞみとたれか見ざらむ」。又船君のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人もいふことゝて心やりにいへる歌、「ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり」。

ある人が「玉のように美しい箱の浦で波が立たない日は海を鏡のようだと見ないことがありましょうか」と詠む。また船の主人が言うことには「二月になってしまった」と嘆き苦しみ耐えられずに、他の人も言うことだからと言って気晴らしで詠む歌「引く船の綱手のように長い春の日を四十日、五十日と私は過ごしてきたんだなあ」

>綱手、船の牽引というのは分かったんだが、乗ってる船は引いている側なのか引かれている側なのか。そんなに重要ではなかろうが。


聞く人の思へるやう、なぞたゞごとなると密にいふべし。「船君の辛くひねり出してよしと思へる事をえしもこそしいへ」とてつゝめきてやみぬ。俄に風なみたかければとゞまりぬ。

聞いた人は、なんだ普通だなとひっそりと言う。「船の主人がなんとか捻り出して良い歌だと思ったものを、そのように言ってはいけない」とぶつぶつ言ってやめた。急に風波が激しくなったので、その場に止まった。

>紀貫之が自分で自分の和歌をつまらね〜と思って、自虐的に入れたんだろうか。まあネタだろう。


二日、雨風止まず。日ひとひ夜もすがら神佛をいのる。
三日、海のうへ昨日のやうなれば船いださず。風の吹くことやまねば岸の浪たちかへる。これにつけてよめる歌、「緒をよりてかひなきものは落ちつもる涙の玉をぬかぬなりけり」。かくて、今日暮れぬ。

二日、雨風止まず。一日中、一晩中、神仏に祈る。
三日、海の上が昨日のように荒れているので船を出さなかった。風がびゅうびゅうと吹くので岸には波が寄せては返る。これにつけて詠んだ歌「麻を縒っても意味がないと思われるのは、落ち積もっていく涙の玉を貫くことができないからだ」そして、今日が終わった。

>「涙の玉」って割とポピュラーな表現らしい。紐を作っても涙は玉ではないので数珠にすることはできないから虚しい。みたいなことかなあ。



実はそろそろ飽きてきた。だが『土佐日記』を全部読んだことあるよ!と言う未来を手に入れるためには、ここで諦めてはいけない。二月十六日で終わるっぽいからあと二回くらいか。ふい〜。これが終わったら器の話をしよう。気楽に。

『土佐日記』を書いている人が教養のある人だからなのか、行事や漢詩や常識が当然のように出てきて、これ習わなかったけど!?現代に全然残ってないけど!?ってなる。当たり前のものこそ記録しなければ消えていってしまう。日々の記録をつける者としては、あんまり盛り上がりのない話を書き人目に晒す行為に勇気をくれるなあと思う。力強く。



こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。

次回更新 2/12:続き!!!!
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。