信頼出来ない相手には、期待も出来ない。

相手に自分を信じさせることと自分が相手を信じることって、どっちが先とか関係なく、最終的には並行して行われることなんじゃないかと思って。つまり自分が信用していない相手からは信用されることは無いのではないかと。

私が心から信頼していなかったから、相手からも信頼してもらえなかったのだろうなと思うことがあって、相手をどう思うかは自分への評価にも繋がるのかしらと考えるようになった。

信用できないなと思うことをちゃんと指摘してあげられたら、もっと良い関係になれていたのかもしれない。指摘できる関係っていうのが既に信頼関係が築かれている証拠であって、そもそも指摘できるなら相手のことを信じているんだよね。


この人のここがすごい!って思ってる人からは、同じようにここがすごい!って思われていると感じる。物の見方が似ているだけだと言われれば、そうなのだろうけど。

どう頑張っても相容れない人もいるだろうし、100%そうだとは言えない。でも、この人私のこといいなって思ってくれてるな〜って人のことを、まあ私はあなたのこと嫌いだけどね!っていう人あんまりいないと思う。めちゃくちゃ生きづらそう。

信用できなくても、この人いいかもって思うことはあるから、好きだと思う気持ちと信じられる気持ちは切り離せる物なのだろう。悪いやつだなあと思いつつも、側から見ている分には面白いから好きだという例もあると思う。


”その人のことを完全に知っているから信じることができる”という訳ではないと思う。分からない部分があっても、この人のことなら不安にならないっていう人はいる。仕事に関しても同じで、信頼している人には無駄に説明をしないだろうし、曖昧でも大丈夫だと感じられるケースはある。

分からないけど工夫してやってるんだろうなとか、聞いてないけどちゃんと生活しているんだろうなとか、最近は少しダラけてるように見えるけど後でしっかり建て直すんだろうなとか。その人を信頼しているから分からなくても放置出来るのだ。多少の困難は笑いあう事もできる。

そもそも全てを知ることなんて不可能に近いのだから、知らない部分があっても信頼できるっていうのは当たり前なんだよな。こう考えると、信頼できるというのは期待できるということに非常に近いのかもしれない。


そうか、だから私は期待することをやめてしまったのだ。期待というのは、こちら側の勝手な行動であって、期待したことが悪いのだと思っていた。期待して落胆するのは身勝手だったと。それなら期待しなければ良いのだと結論付けてしまっていた。でもそれより先に、信頼していなかったことが悪かったのだった。(いま腑に落ちている最中です。)

なんてことに気がついてしまったんだろう。しまったなあ。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。