【古文のはなし】『土佐日記』を読む。海に入る月を見て、松に往く鶴を見る。
『土佐日記』続き。一週間滞在して年末年始を過ごした大湊をようやく出ます。
前回↓
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八日、さはる事ありて猶同じ所なり。今宵の月は海にぞ入る。これを見て業平の君の「山のはにげて入れずもあらなむ」といふ歌なむおもほゆる。もし海邊にてよまゝしかば「浪たちさへて入れずもあらなむ」と詠みてましや。
八日、障ることがあってまた同じ場所にいる。今宵の月は山ではなく海に入る。京都であれば、月は海ではなく山に入る。これを見て、在原業平さんが詠んだという「ずっと月を見ていたいのに、いつもそれを隠してしまう山の端が月から逃げて、月を入れないでくれたら良いのに」という歌を思い出す。もし海辺だったら、「山の端ではなく月が海面を飲み込むのを波が立ち塞がってくれないかなあ」と詠むのではなかろうか。
>インテリジョークだ。こういうノリ好きだよ。こういうことをやってた人が、令和の世で「男もすなる日記といふものを〜」と引用されまくっている。
今この歌を思ひ出でゝある人のよめりける、「てる月のながるゝ見ればあまの川いづるみなとは海にざりける」とや。
今この和歌を思い出して、ある人が「照る月が流れていくのは海である。これを見れば天の川が辿り着く港はこの海だと分かるのだよ。」と詠んだ。
>この発想良いな。欲しい。
この和歌、「ある人」が詠んだって書いてるけど、絶対筆者の作だろ!と思って検索すると、紀貫之の作品とすぐに出てきた。そうだよなあ!うまいこと詠みやがって!自演じゃねえか!
九日、つとめて大湊より那波の泊をおはむとて漕ぎ出でにけり。これかれ互に國の境の内はとて見おくりにくる人数多が中に藤原のときざね、橘の季衡、長谷部の行政等なむみたちより出でたうびし日より此所彼所におひくる。この人々ぞ志ある人なりける。この人々の深き志はこの海には劣らざるべし。
九日、早朝に大湊から那波の泊を目指して船を漕ぎ出した。「国境の内は」といって見送りに来る人が多くいた中で、藤原時実、橘季衡、長谷部行政などは前国守のご出発から至る所に追ってくる。この人々はとても誠実な人だ。彼らの深い志はこの海には劣らないだろう。
>後半、前国守本人が顔を出している。自分以外の誰かとして書き続けていると、書きたいことが書ききれないんだろうな。私情が。
これより今は漕ぎ離れて往く。これを見送らむとてぞこの人どもは追ひきける。かくて漕ぎ行くまにまに海の邊にとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にもいふ事あるべし、船にも思ふことあれどかひなし。かゝれどこの歌を獨言にしてやみぬ。
「おもひやる心は海を渡れどもふみしなければ[#「なければ」は底本では「なれば」]知らずやあるらむ」。
今は大湊から漕ぎ離れていく。離れていく我々を見送ろうと、多くの人たちが来てくれた。船を漕いでいくと海辺にいた見送りの人も遠くなってしまった。船で見送りにきた人も見えない。岸の人々にも言う事があるだろう、船の人々にも思い入れがあるけれどどうしようもない。だけれど、この和歌を独りごちて終わりにしよう。
「見送りに来てくれた人々を思いやる心は海を渡るけれど、手紙もないし、私も海を踏んで渡れないので、彼らはこの気持ちを知らないだろう。」
>ここの「ふみ」が掛詞なの気が付かなかった。
かくて宇多の松原を行き過ぐ。その松の数幾そばく、幾千年へたりと知らず。もとごとに浪うちよせ枝ごとに鶴ぞ飛びかふ。おもしろしと見るに堪へずして船人のよめる歌、「見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」とや。この歌は所を見るにえまさらず。
こうして宇多の松原を通り過ぎる。その松の数の多いこと、何千年経ったとも分からない。松の根元に波が打ち寄せ、枝の間を鶴が飛び交う。素晴らしいと見ていると、船人が和歌を詠んだ。「見渡せば松の枝葉に棲む鶴は松を千代の仲間と思っているようだ」とのこと。この和歌は風景を直接見るのには敵わない。
かくあるを見つゝ漕ぎ行くまにまに、山も海もみなくれ、夜更けて、西ひんがしも見えずして、てけのこと楫取の心にまかせつ。男もならはねばいとも心細し。まして女は船底に頭をつきあてゝねをのみぞなく。かく思へば舟子楫取は船歌うたひて何とも思へらず。
そのような風景を見つつ漕いでいくと、山も海もみんな暮れて、夜更けて、西東も見えず、天候のことは舵取りの心に任せている。男もこのような状況に慣れていないので心細い。まして女は船底に頭を突き当てて声を上げて泣く。そうかと思えば、船子、舵取は船歌を歌っており、なんとも思っていないらしい。
>てけ=天気!?なるほど!?
船旅に慣れているものとそうでないものの差が面白い。多分、身分的には慣れていない人のが上なんだろうけど、この特殊な状況になると立場がひっくり返る感じになる。
そのうたふうたは、「春の野にてぞねをばなく。わが薄にて手をきるきる、つんだる菜を、親やまほるらむ、姑やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず」。これならず多かれども書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども心は少しなぎぬ。かくゆきくらして泊にいたりて、おきな人ひとり、たうめ一人あるがなかに、心ちあしみしてものも物し給はでひそまりぬ。
そのうたう歌は、「春の野で声を上げ泣く。若薄で手を切る切る、摘んだ菜っぱを、親は食べたがるか、姑が食うだろうか。帰ろうよ。昨夜の娘に会えたらなあ。銭を乞おう。嘘ついて、掛け買いして、銭も持ってこず己さえ来ない。」。これ以外にもたくさんあったが書かない。これらの歌で人が笑うのを聞いて、海は荒れるが心は少し落ち着いた。そうこうして泊に着き、おじいさん一人、おばあさん一人が気分がすぐれないといって何も召し上がらず眠りについた。
>船頭の歌、登場人物がみんな可哀想な感じするが解釈合ってるのかな。子供が菜を摘んで帰るような日課があり、昨夜どこかの娘に菜を売ったときお金は明日でいいよ的な感じになって、でもその娘がいなくって損をした。と読んだからみんな生活が苦しいのかなと思ったんだが。
十日、けふはこの那波の泊にとまりぬ。
十日、今日はこの那波の泊に泊まった。
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ふむ〜。前半はすっごく読みやすかったのに、後半が分かりにくかった。知らない単語たくさん〜。「心地悪しみす」て。松原のような風景って今でも見れるのかな。松の間を鶴が飛び交うの、見てみたいが。三保の松原は有名だけど、何がどうしてそんなに有名なんだろう。あ、羽衣伝説らしいです。はごろもでんせつう〜?
引用しよう!
「天女が衣に枝をかけて水浴びしている時、漁師が衣を取り上げ、返す代わりに天女の舞を披露してもらったという天女の羽衣伝説で知られる「羽衣の松」がある。」
え、天女って海の水で体洗うの。ベッタベタになるじゃん。
こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。
次回更新 12/4:続きかも
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。
めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。