【古文のはなし】『土佐日記』を読む。海の月も山の月も異国の月もすべて同じ。

あらすじ
土佐を出発するも、なんかすごい見送りをしてくれる人が追いかけてきて、宴会とかやってたけど進むにつれてそういう人もいなくなって、いつの間にか年が明けて船旅中だから満足にそれっぽいこともできず、天候悪くあまり進まず、まったくもう早く帰らせてくれませんかね。


原文↓

前回↓



十六日、風浪やまねば猶同じ所にとまれり。たゞ海に浪なくしていつしかみさきといふ所渡らむとのみなむおもふ。風浪ともにやむべくもあらず。ある人のこの浪立つを見て詠めるうた、「霜だにもおかぬかたぞといふなれど浪の中にはゆきぞ降りける」。
さて船に乘りし日よりけふまでに廿日あまり五日になりにけり。

十六日、風波が落ち着かないのでまだ同じところに泊まっている。海に波がなくなったらみさきという所を渡ろうと思う。風、波は依然止みそうにない。ある人、波が立つのを見て「霜さえも置かない地域だけども、波の中は白く細かな飛沫が混じり、雪が降っているようだよ。」と詠む。
船に乗った日から今日までで二十五日が経った。

>波飛沫を雪のようだと例える感じ、そのテンション、掴めてきたよ。そこから桜吹雪になるんでしょうよ。


十七日、曇れる雲なくなりて曉月夜いとおもしろければ、船を出して漕ぎ行く。このあひだに雲のうへも海の底も同じ如くになむありける。うべも昔のをのこは「棹は穿つ波の上の月を。船は襲ふ海のうちの空を」とはいひけむ。きゝされに聞けるなり。又ある人のよめる歌、「みなそこの月のうへより漕ぐふねの棹にさはるは桂なるらし」。

十七日、空を曇らせる雲が晴れて、夜明け前の月夜が大変趣深く、船を出して漕ぎ進む。この時間帯は雲の上も海の底も同じようだ。なるほど、昔の男が「棹は穿つ波の上の月を。船は襲う海のうちの空を。」と言ったのも道理だ。海は空で、空は海だから。面白半分で聞いたのだ。また、ある人が「水底の月の上を漕いでいく船の棹に触ると、月に生えているという桂の木であることよ。」と詠んだ。

>月に桂の木が生えているから、水面に反射した月の上を通るとき木材の棹が、桂の木に見立てられる。ホア〜。空と海が同じように青く深い時間帯で、周りに街灯もなく落ち着いた水面には月の反射が見えるという情景が良いですね。その場所に身を置いて船に揺られながら空を眺めてたら、いつの間にか日が昇ってきて、オレンジ色が広がっていくみたいな、そういうVRを作りませんか。

>月に桂が生えているというのは中国の伝説だそう。月桂、月桂樹、月桂冠、そういうことだったか。疑問にも思ってなかった。


これを聞きてある人の又よめる、「かげ見れば浪の底なるひさかたの空こぎわたるわれぞさびしき」。かくいふあひだに夜やうやく明けゆくに、楫取等「黒き雲にはかに出できぬ。風も吹きぬべし。御船返してむ」といひてかへる。このあひだに雨ふりぬ。いとわびし。

これを聞いてある人がまた詠んだ歌「反射する月をみると波の底にある夜空を漕ぎわたる私の姿がもの悲しい」。そうしていると夜がようやく明けていく。舵取りらが「黒い雲が突然出てきた。風も吹くだろう。船を引き返します。」と言って返る。引き返す間に雨が降った。むなしい。


十八日、猶同じ所にあり。海あらければ船いださず。この泊遠く見れども近く見れどもいとおもしろし。かゝれども苦しければ何事もおもほえず。男どちは心やりにやあらむ、からうたなどいふべし。船もいださでいたづらなればある人の詠める、「いそぶりの寄する磯には年月をいつとも分かぬ雪のみぞふる」

十八日、なお同じ場所にいる。海が荒れているので船出せず。この泊は遠くを見ても近くを見ても大変良い。だが、早く帰りたくて苦しいので何事も思えない。男たちは気晴らしにだろうか、漢詩などをやる。船も出ず暇なので、ある人が「荒波の打ち寄せる磯にはどんな年月でも雪だけが降る」と詠んだ。

>辛い時は幸せなはずのことも辛く思えてしまう。この泊の良さは分かっているものの、やはり早く都へ帰りたいのにうまくいかない気持ちのが強いようだ。今と当時とでは予想外に長引く旅への捉え方が違うんだろう。今だったら「まーなんとかなるべ」って思える。


この歌は常にせぬ人のごとなり。又人のよめる、「風による浪のいそにはうぐひすも春もえしらぬ花のみぞ咲く」。この歌どもを少しよろしと聞きて、船のをさしける翁、月頃の苦しき心やりに詠める、「立つなみを雪か花かと吹く風ぞよせつゝ人をはかるべらなる」。

この和歌はいつもは詠まない人のものである。またある人が「風と共による波の磯には鶯のことも春のことも知らない桜だけが咲く」と詠んだ。白く散る波飛沫は雪にも桜にも例えられるが、結局は波なので冬以外にも雪は降るし春以外にも桜が咲く。この二つの歌をやや好意的に聞いて、船の長である翁が、ここのところの苦しい心を紛らわすために詠んだ歌「立つ波を雪だろうか桜だろうかと、吹く風が波を動かして人を騙しているようだ」。

>波が他のものに例えられるのを、波を発生させる風が人を騙していると見立てるのすごい。


この歌どもを人の何かといふを、ある人の又聞きふけりて詠める。その歌よめるもじ三十文字あまり七文字、人皆えあらで笑ふやうなり。歌ぬしいと氣色あしくてえず。まねべどもえまねばず。書けりともえ讀みあへがたかるべし。今日だにいひ難し。まして後にはいかならむ。

この歌たちを人が何かと感想するのを、ある人がまた聞き耽って詠んだ。その和歌の文字が三十七文字もあり、皆思わず笑っていた。字余りの歌を読んだ人は機嫌を損ねていた。真似して詠もうとしてもできない。文字でその和歌を書いたとしても、返歌をするのは難しい。今日でも難しく、ましてや後ではどうだろう。

>和歌ができないと馬鹿にされる。この時代に生まれなくてよかった。


十九日、日あしければ船いださず。
二十日、昨日のやうなれば船いださず、皆人々憂へ歎く。苦しく心もとなければ、唯日の經ぬる數を、今日いくか、二十日、三十日と數ふれば、およびもそこなはれぬべし。いとわびし。夜はいも寢ず。

十九日、日が悪いので船を出さず。
二十日、昨日と同じく出さず。みんな憂い嘆く。苦しく心細いので、過ごしてきた日を数えて、今日は何日、二十日、三十日、とやるので指も痛めてしまいそうだ。とってもつらい。夜は寝もしない。

>未来が見えない苦しさが。いつか故郷に帰れる日が来て船旅は終わるのに、それがいつまで続くか分からないから辛い。楽しいことがあった時に、ふとこの深い闇にのまれそうな自分に気がついて、慌てて楽しい気分を思い出すような。


二十日の夜の月出でにけり。山のはもなくて海の中よりぞ出でくる。かうやうなるを見てや、むかし安倍の仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて歸りきける時に、船に乘るべき所にて、かの國人馬の餞し、わかれ惜みて、かしこのからうた作りなどしける。あかずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は海よりぞ出でける。

二十日の夜、月が出ていた。山の端がないので海の中から出てくる。この様子を見て、昔阿倍仲麻呂という人は、中国に渡って帰ってくる時に、船に乗るはずのところで向こうの国は馬のはなむけをして、別れ惜しんで、例の漢詩を作るなどをした。満足できないで、二十日の夜の月が出るほど遅くまでその宴が行われた。その月は海から出たそうだ。今の月と同じだ。

>かなり『土佐日記』冒頭と似ている。紀貫之が「船路なれど馬のはなむけす」とか書いてた時、阿倍仲麻呂のこと考えてたのかな。国と時代を跨いで同じことをするなんて、ずっと船旅のためのセレモニーが無かったのかしら。


これを見てぞ仲麻呂のぬし「我が國にはかゝる歌をなむ神代より神もよんたび、今は上中下の人もかうやうに別れ惜み、よろこびもあり、かなしみもある時には詠む」とてよめりける歌、「あをうなばらふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」とぞよめりける。かの國の人聞き知るまじくおもほえたれども、ことの心を男文字にさまを書き出して、こゝの詞傳へたる人にいひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむめでける。

これを見て、阿倍仲麻呂氏は「私の国ではこのような和歌を神代から神もお詠みになり、今は身分の上下関係なくこのように別れ惜しみ、嬉しい時も、悲しい時も詠むのです。」と言い「青い海原を眺め見れば春日にある三笠の山から出る月と同じ月があるよ」と詠んだ。向こうの国の人は聞いても分からないように思えたけれど、この和歌の意味を漢字で書き出して、日本語を通訳する人に知らせると、理解したのだろうか、思いの外賞賛したとのことだ。

>「月はどこで見ても同じもの」というのが色んな作品で使われているよなあと最近思う。「同じ月を見ている」「同じ空を見ている」というのは、誰にでも当てはまる共通点なんだけど、特定の誰かと誰かを繋げるために使われがち。「同じ宇宙を見ている」だとなんかちょっと違くね?感はある。


もろこしとこの國とはことことなるものなれど、月の影は同じことなるべければ人の心も同じことにやあらむ。さて今そのかみを思ひやりて、或人のよめる歌、「都にてやまのはに見し月なれどなみより出でゝなみにこそ入れ」

中国と日本は別の国ではあるけれど、月の光は同じなので、人の心も同じように動かされるのだろう。さて、今その当時を思いやって、ある人が詠んだ歌は「都では山の端で見た月だけれど、ここでは波から出てきて波に入っていくのだ」であった。



夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した。というやつ。「あなたと一緒だから月が一層綺麗に見えます」って習った気がするんだけど、ちょっと前に月は元々綺麗なんだけど、それを一緒に見て直接「綺麗だね」って言い合える関係なことが大事なんじゃないかと思いついた。

この「愛してる」が、一方的な告白なのか二人の確認なのかに依ると思うんですよ。「月が綺麗ですね」は余裕がありそうじゃない?月を一緒に見るという当たり前のことが嬉しくて、このままずっといたい気持ちが自然と湧き上がって、相手も同じ気持ちのような気がして、その確認を取るような「月が綺麗ですね」なんじゃなかろうかと、そう思ったんだよ。あってるか分からないけども。

当たって砕けろ的な告白の場合、「月が綺麗ですね」はさすがに無くないか。仮に告白で使う場合、八割九割うまくいく雰囲気の時にしか使えないと思う。英語圏て「I love you」を告白の時に使うのかな。恋人になってくれる?みたいに言いそう。「好き」と「愛してる」の間くらいだと思ってるが。

団子食べたくなってきた。



こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。

次回更新 1/8:続きかも さすがにこれを元日に更新するのはやめとこう。
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。