改名に協力するため本人希望の名前で手紙を送ったら数年後に改名していた友人のこと

トランスジェンダーの友人がいる。身体の性別と心の性別が違っており、現在は心の性別に従って過ごしている。それなりに付き合いが長く、知り合った時とは別の見た目になった。

そのひとは「プールで泳ぐのが好きなんだ」と言った。それから「この見た目になってからは行けないんだ」と続けた。レジャープールも市民プールもホテルにあるプールも更衣室が二種類しかなく、そのひとはどちらを使うにしても自分も他人も困るのが分かっている。やや考え込んで「どうしようもないね」と言い合った。

トランスジェンダーであることが社会生活を制限することに繋がる。これは「そりゃそう」なのだと思う。この文章を書いている私は弱難聴で、暮らしの中でこの耳に制限されているなあと感じるけど、それもまた「そりゃそう」だ。誰もが他の人と違う部分があって、それに制限されて生きている。老化によって制限が増えることもある。

あらゆる障害には程度があるけれど、私の弱難聴は、学校でやる聴覚検査の音を聞けたことはないが、日常会話や授業中の先生の声は聞き取れる程度だ。「制限されている」と言うほどでもないかもしれない。けれど、健聴者に紛れて生活出来るぶん理解されにくいというのがあって、例えば、テレビの音はスピーカーからでは聞こえにくく、よく画面に近付きすぎだと親に怒られた。

あるときイヤホンを付けてみたら、初めてBGMの存在に気付いたし、画面を見なくても話している言葉がきちんと耳に入ってきた。革命だった。イヤホンは私の耳にかけられた制限を少しゆるめてくれた。

じゃあ、友人にとっての「イヤホン」はなんだろうか。

私はこの友人がいなければ、ジェンダーについて考え始めるまで、もう少し時間がかかっていたと思う。このひとは、この世界に普通に存在する普通の人で、ただ私の友達という点で私にとって特別なのだ。

このひとを知ることがトランスジェンダーへの理解とイコールだとは思わない。このひとは個人でしかないからだ。個人で、トランスジェンダーの一部だ。個人を知ることは、知らない世界のごく一部を知ることだ。

みんな、人と違うところがある。全員が全く制限を受けない世界にするのは難しい。でも「イヤホン」なら手に入れやすい。人と人が向き合うことで、この世界に「イヤホン」のような小さな制限緩和が増えると信じている。

一緒に買い物した日に入手した紙袋をいじくりながら、こんなことを考えた。

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