【和歌のはなし】己惚れをやめればほかに惚れ手なし

田川水泡著『滑稽の研究』を読んだ。タイトル通り滑稽についての本で、滑稽についての理論と日本文化の舞踊、和歌、文学、絵画における笑いを取り上げる。理論の部分は、滑稽とは美だとか醜だとかちょっとよく分からなかったが、文化の方は読んでいて楽しかった。

前々からなんだか江戸時代が好きなんだよなあと思っていたが、それは町人の文化だからかもしれない。それまでの貴族・武士の文化から、町人の文化へ移り気軽な感じが出ているのか。上品な遊びから下品なものになると教養があまり必要なくなってくるから。あとはナンセンスな笑いが増える。これは好みの問題だろう。


やはり俳諧に惹かれる。俳諧は滑稽味が強くナンセンスな作が多い。自由度が高い。今回知ったのだが、俳諧の祖と言われる山崎宗鑑の辞世の句が良いのだ。

宗鑑は どちらへと人の 問うならば ちと用あって あの世へといえ

「用事があるからあの世に行ったよ」で自分の死を笑いにするのがすごい。そして意味が分かりやすい。


俳諧は連歌である。連歌はもともと民衆文化だったのだが、広まるうちにプロの連歌師というのが出てきて、ルールが確立され楽しめる人が限られてしまった。そこで「いや、もっとみんなが楽しめるものでしょうよ!」って立ち上がったのが山崎宗鑑だ。

日本史Bでは山崎宗鑑は『犬筑波集』とセットで習うのだが、ここは丸暗記させられた記憶がある。中身を知るんじゃなく暗記のみ。文化史は入試でもそこまで重要じゃないから後回しにされたんだろう。めちゃくちゃ勿体無いことをした。せめてこの辞世の句を知っていれば。見逃してただけだったらごめん。

俳諧連歌集「犬筑波集」連歌集『新撰菟玖波集』には無かった俳諧を取り扱う。『新撰菟玖波集』はプロの連歌師が伝統的な和歌集のように連歌を編纂したもの。そのあと意図的に排除された雅ではない連歌を引っ張ってきたのが「犬筑波集」と言えばいいのか。(そうなのか?)

『新撰菟玖波集』が純文学だとしたら、「犬筑波集」は大衆文学と言ってもいいのかもしれない。ぴったりの例えではなさそうだが、イメージ的にはそんな感じ。う〜む、『新撰菟玖波集』が紅まどんな、「犬筑波集」が普通のみかん。こっちの方が合っている気がする。そのように学んでいればテストで二点くらい逃さずに済んでいた可能性がある。


俳諧の後に出てくるのが川柳である。なんと川柳、人名由来の単語であった。柄井川柳(からいせんりゅう)という人物だ。この人は点者、つまり点数をつける審判が上手で人気が高まり、その結果「川柳」という形式の名前にまでなってしまった。


連歌→俳諧→川柳の流れのめちゃくちゃスッキリする解説を試みる。
連歌とは、一番目が5・7・5の上の句を、二番目が7・7の下の句を、二番目の下の句に合わせた三番目が5・7・5をつけ、四番目が7・7をつけ、それをずっとやっていくというもの。チェーンのように作られる和歌である。

連歌・俳諧
「①575』→『②77」→③「575』→『④77」・・・

川柳は前句付けと言って、もともとある下の句にぴったりの上の句を考えるもの。要するに連歌の②7・7→③5・7・5を行う。

川柳
①(考える)575←(お題)77
②(考える)575←(お題)77
③(考える)575←(お題)77
・・・

それがいつの間にか5・7・5のみになり、季語がいらないなどのルールもそのまま残った。(調べてないが、お題の方に季語が含まれてたとかで不要だったのか?民衆が自由に作れるような和歌の要素を詰め込んだお題が用意されてたのかも。)

対して俳句は「5・7・5」で完結するもので、お題となる下の句がないので様々なルールがある。


最後に、本書に掲載されていた俳諧から面白かったものを引用する。

愛想のよいは茶代をおかぬやつ
長ばなし扇をひろげてはたたみ
己惚れをやめればほかに惚れ手なし

とてもいい。

余談だが「斯波らく」というネーミングって江戸時代の戯作者とか俳諧師とかのセンスだなあと思った。


次回更新 3/27:話芸の話とか出来ないかなあ。
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。


参考文献:田川水泡著『滑稽の研究』
調べていたら、俳諧データベースというのがあるらしい。捗る〜


めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。